できごと

荀子と稷下の学

Jixia Academy
BC260年頃
年に諸説あり重要度 5
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民マウリヤ朝周の諸侯国ヒンドゥーの諸王国と共和国シャンシュン王国秦アイヌヒンドゥーの諸王国BC260年頃臨淄
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概要

斉の稷下の学宮で、荀子は3度「祭酒」(学長)になった。「人の性は悪、その善なるものは偽(人為)である」。孟子の性善説に反対した。礼は聖人が作った制度で、学んで身につける。天は意志を持たず、人が治める。「天を制して用いる」。弟子に韓非と李斯。儒家から法家が出た。楚の蘭陵で死んだ。『荀子』32篇。漢の儒教は荀子の儒教で、宋の儒教は孟子を選んで、荀子を外した。

場所

臨淄
36.83°N 118.30°E · 中国・山東省淄博市(斉の都)

関わった人(2)

荀子BC313年頃–BC238年頃 · 祭酒孟子BC372年頃–BC289年頃 · 性善説に反対

本文

戦国時代の中国では、七つの大国が生き残りをかけて争い、君主たちは国を強くする知恵を持つ者を求めた。孔子の教えを継ぐ儒家、墨子の墨家、法による統治を説く者、自然のままに生きよと説く道家など、さまざまな思想家が国々を渡り歩いた。「諸子百家」と呼ばれる時代である。その思想家たちが集まる最大の場が、東方の大国、斉の都臨淄にあった。

臨淄の西の城門の一つ、稷門の外に、斉の王たちは学者のための屋敷を並べた。紀元前4世紀に始まったとされ、威王や宣王の時代に最も栄えた。これを稷下の学宮と呼ぶ。司馬遷の『史記』によれば、宣王は学者を好み、70人あまりに上大夫の位に相当する俸禄と立派な屋敷を与えた。彼らは政治に携わる官職には就かず、ただ政治と学問を論じた。「治めずして議論す」と記されている。最盛期には、学者とその弟子を合わせて数百人から千人がいたという。陰陽五行の説を唱えた鄒衍、弁舌で知られた淳于髡、法と勢を論じた慎到らが名を連ね、孟子も宣王の時代に斉に滞在した。異なる学派が一つの場所で論じ合うこの学宮は、ほぼ同じ頃にアテナイで開かれたプラトンのアカデメイアと並べて語られることもある。

稷下の学宮を描いた展示(淄博博物館)
稷下の学宮を描いた展示(淄博博物館)Wikimedia Commons Vitsuha · CC0

荀子は趙の人で、名を況という。『史記』は、彼が50歳で初めて斉に来て学んだと記すが、「15歳」の書き誤りではないかとする説もある。斉の襄王の時代、すでに古参の学者が世を去った学宮で、荀子は最も年長の師と仰がれ、学者たちの長である祭酒を3度務めた。祭酒とは、もとは祭りで最初に酒を注いで神に捧げる、長老の役目である。やがて讒言を受けて斉を去った荀子は、西の秦を訪れ、宰相の范雎の問いに、秦の役人も民も質素で規律正しく、治世の極みに近いが、儒者がいないのが欠けたところだ、と答えたと伝えられる。その後、南の楚の宰相春申君に招かれ、蘭陵(いまの山東省の南部)の長官になった。

荀子の思想として最も名高いのは、人の性は悪である、という主張である。人は生まれつき利益を好み、妬み憎み、耳や目の欲を持っている。それに従えば、争いが起き、秩序が乱れる。その善なるものは「偽」である、と荀子は言う。偽とは、いつわりではなく、人の為すこと、すなわち人の努力と工夫のことである。曲がった木も、型に当てて矯めればまっすぐになり、鈍い刃物も砥石にかければ鋭くなる。人も、聖人が作った礼と義を学び、師について自分を矯めて、はじめて善になる。

荀子の肖像
荀子Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

これは、人には生まれつき善の芽があるとする孟子の性善説への、正面からの反論だった。孟子は、井戸に落ちかけた子どもを見れば、誰でも思わず助けようとする、その心が善の芽だと説いた。荀子は、もし人の性が善なら、聖人も礼も要らないことになる、と答えた。ただし、荀子の説は人間への絶望ではない。誰もが学べば聖人になれる、という強い信頼が、その裏にある。荀子の書の冒頭に置かれた「勧学篇」は、学問は終わることがない、青は藍から取るが藍よりも青い、と説く。弟子が師を超えることを喜ぶ「出藍の誉れ」の言葉は、ここから来ている。

荀子は、天についても新しい考えを示した。天の運行には決まりがあり、名君の堯のために存在するのでも、暴君の桀のために滅びるのでもない。雨乞いをして雨が降るのは、雨乞いをしなくても雨が降るのと同じことだ。星が落ち、木が鳴るのは、珍しいことではあっても、恐れるには足りない。天を偉大なものとして思い慕うより、物を蓄えて天を制し、天の定めを使いこなすほうがよい、と荀子は言った。天は人の善悪に応えて吉凶を下すものではなく、人の世の治乱は人の行いで決まる。古代の中国で、これほどはっきりと天と人を切り分けた思想家は珍しい。

孟子(孟軻)の肖像画
孟子Wikimedia Commons anonymous · Public domain

荀子にとって、礼は人の欲を調える社会の仕組みだった。人の欲には限りがなく、物には限りがある。放っておけば奪い合いになる。そこで昔の王は礼を作り、身分と分け前を定めて、欲を満たしながら争いを防いだ。言葉についても、名は人々の約束で定まるものであり、王が名を正しく定めなければ政治は乱れる、と説いた。

荀子の弟子からは、思いがけない人物たちが出た。韓の公子だった韓非は、人の性は利を求めるという師の見方を推し進め、礼ではなく、厳格な法と賞罰と君主の術で国を治めるべきだと説いた(『韓非子』)。楚の人李斯は秦に仕えて宰相にまで上り、秦王政の天下統一を支えた(秦の中国統一)。韓非が秦に来たとき、李斯はその才を妬んで陥れ、韓非は獄中で死んだ。李斯はのちに、儒者の書を焼かせる政策を進言し(焚書坑儒)、始皇帝の死後、宦官の趙高に陥れられて処刑された。儒家の荀子の門から、儒家を弾圧した法家の政治家が出たのである。荀子自身は、春申君が暗殺された紀元前238年に職を失い、そのまま蘭陵で世を去ったとされる。

『韓非子』に関わる図版:Hanfeizi or Han Feizi, Qing dynasty, Hunan Museum
『韓非子』Wikimedia Commons Huangdan2060 · Public domain

漢の時代に儒教が国の学問になると、経典の伝承や礼の学問の多くは荀子の系統から伝わったとする見方がある。しかし、その後の評価は厳しくなった。唐の韓愈は、荀子を大筋では純粋だが小さな傷がある、と評した。宋の儒者たちはさらに踏み込み、性は悪というただ一句で根本を誤った、と退けた。朱熹が儒教の基本の書として選んだ四書には『孟子』が入り、『荀子』は入らなかった。それから数百年、荀子は儒家の正統から外れた思想家として扱われた。再び光が当たったのは清の時代の考証学者たちの研究からで、20世紀には、天を人の力で制するという考えが、古代の唯物論の先駆として評価されるようになった。いまに伝わる『荀子』32篇は、漢の劉向が整理したものである。

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