マハーヴィーラの入滅
概要
クシャトリヤの家に生まれ、30歳で出家し、12年、裸で歩いて苦行した。「ジナ(勝者)」。教え。全ての生き物に霊魂がある。だから殺さない(アヒンサー)。水を漉し、夜は食べず、道を掃きながら歩き、口を布で覆う。世界は誰かが作ったのではなく、はじめから在る。真理は一つの立場からは言えない(アネーカーンタヴァーダ)。ブッダとほぼ同時代で、二人は会っていない。ジャイナ教は、いまもインドに450万人。
場所
25.13°N 85.60°E · インド・ビハール州
関わった人(1)
マハーヴィーラBC599年頃–BC527年頃 · 説いた本文
紀元前6世紀から5世紀にかけて、ガンジス川の中流域は大きく変わりつつあった。森が切り開かれて稲作が広がり、城壁に囲まれた都市が生まれ、貨幣が使われ、商人が力を持ち始めた。マガダやコーサラのような王国と、有力な氏族の合議で治められる共和政の国々が覇を競った。その中で、ヴェーダの祭式と、それをつかさどるバラモンの権威は揺らいでいた。家を捨て、森や町はずれで修行し、施しで生きる「沙門」と呼ばれる人々が数多く現れ、それぞれに新しい解脱の道を説いた。仏典は、ブッダと同時代の有力な沙門の師として6人の名を挙げている。その一人が、ニガンタ・ナータプッタ、すなわちマハーヴィーラである。
本名はヴァルダマーナ。共和政のヴァッジ国の都ヴァイシャーリー近くのクンダグラーマで、ジュニャートリ族の首長シッダールタと、有力なリッチャヴィ族出身の母トリシャラーの間に生まれた。武人階級のクシャトリヤである。伝承によれば、両親の死後、30歳で兄の許しを得て出家した。一派の伝えでは、出家から13か月後に、身にまとっていた最後の一枚の衣も捨て、以後は裸で遊行したという。

それから12年半あまり、彼は厳しい苦行を続けた。長い断食、炎暑や寒さの中での瞑想、雨期には虫を踏まないように一か所にとどまった。経典には、村人に打たれ、犬をけしかけられ、追い払われても、彼が抵抗しなかったと記されている。42歳のとき、リジュパーリカー川のほとりのサーラの木の下で、彼は完全な知(ケーヴァラ・ジュニャーナ)に達したとされる。人々は彼を「ジナ」(煩悩に打ち勝った者)、「マハーヴィーラ」(偉大な勇者)と呼び、その教えを奉じる人々は「ジナの信徒」、すなわちジャイナと呼ばれるようになる。ジャイナ教では、彼は新しい宗教の開祖ではなく、この時代に現れた24人目にして最後の救済者(ティールタンカラ)と位置づけられている。
その後およそ30年、彼はガンジス中流域の町や村を巡って教えを説いた。あらゆる生き物、さらには地・水・火・風・植物にまで霊魂が宿ると考え、それらを傷つけないことを何よりも重んじる不殺生(アヒンサー)、行いによって魂にこびりつく微細な物質としての業、ものごとは一つの立場からは語り尽くせないとする多面的な見方などである。その中身についてはマハーヴィーラの教えに詳しい。マガダの王たちとも関わりを持ち、出家者と在家信者からなる教団を組織した。

同じころ、同じ地域で、ゴータマ・シッダールタも教えを説いていた(釈迦の悟り)。仏典にはマハーヴィーラとその弟子たちがしばしば登場し、行き過ぎた苦行は無益だと批判されている。ジャイナ教の側の文献にも、仏教を退ける議論がある。二人は同じ町に滞在したこともあったとされるが、直接会ったという記録はない。
最期の地は、ビハールのパーヴァー(いまのパーヴァープリーとされる)だった。72歳だった。伝承によれば、彼は最後の2日間、断食しながら説法を続け、カールッティカ月の新月の夜明け前、静かに息を引き取った。ジャイナ教では、これを肉体の束縛から完全に解き放たれた「涅槃」と呼ぶ。経典『カルパ・スートラ』は、その夜、周辺の18人の王たちが、知の光が去ったいま、物質の灯で照らそうと言って灯明をともした、と伝える。ジャイナ教徒は、インドの灯明祭ディーワーリーを、この夜を記念する祭りとして祝っている。同じ夜、高弟のインドラブーティ・ガウタマが完全な知に達したとされる。

その没年は、はっきりしない。ジャイナ教の白衣派の伝統は紀元前527年とし、それにもとづく紀年法がいまも使われているが、近代の研究者の多くは、ブッダとの同時代性などから、もっと後の紀元前5世紀とみる。紀元前468年ごろとする説はその一つで、ほかにも紀元前420年代とする説などがあり、幅がある。
仏典には、ブッダがマハーヴィーラの死を聞いた話が残っている。パーヴァーでニガンタ・ナータプッタが亡くなると、その弟子たちは二つに割れて争い、互いを言葉の刃で傷つけ合った、と伝えられた。ブッダはこれを聞き、自分の教団がそうならないための心得を弟子に説いたという。教祖を失った教団の動揺を伝える話として興味深い。

教団はその後も続いたが、やがて大きな分裂を経験する。伝承によれば、チャンドラグプタの時代にマガダを大飢饉が襲い、長老バドラバーフが弟子たちを連れて南インドへ移った。北に残った人々と南へ行った人々の間で、戒律の解釈に違いが生まれた。のちに、出家者は一糸もまとわず裸であるべきだとし、女性はそのままの身では解脱できないとする「空衣派(ディガンバラ)」と、白い衣をまとうことを認め、女性も解脱できるとする「白衣派(シュヴェーターンバラ)」に分かれた。分裂がはっきりした形をとったのは紀元後1世紀ごろとされる。白衣派は5世紀にヴァラビーで会議を開き、それまで口伝えだった聖典を書き留めた。
インドでは、仏教は13世紀ごろまでに生まれた土地からほとんど姿を消した。しかしジャイナ教は消えなかった。土を耕せば虫を殺すとして農業を避けた信徒たちは、商業や金融、宝石の取引に携わり、在家の商人の共同体が寺院と出家者を支え続けた。いまのインドで信徒はおよそ450万人、人口の0.4パーセントにすぎないが、識字率の高さと経済力で知られる。

20世紀、不殺生の思想は思いがけない形で世界に広がった。グジャラートに生まれたガンディーは、ジャイナ教徒の多い土地で育ち、若いころにはジャイナ教徒の在家の思想家ラーイチャンドバーイを師と仰いだ。ガンディーが非暴力の抵抗を唱えるとき、その根にはこの古い教えがあった。2500年前、パーヴァーの夜に灯された灯明は、いまもディーワーリーの夜ごとに、インドの家々にともされている。