人物

サミュエル・ジョンソン

Samuel Johnson
AD1709年9月18日 – AD1784年12月13日(享年75)
イギリス重要度 4

概要

リッチフィールドの書店の子。幼時の結核性リンパ節炎で片目と片耳がほとんど利かず、生涯、不随意な動き(トゥレット症候群と推定される)があった。金が尽きてオックスフォードを中退し、ロンドンで雑文を書いて食いつないだ。辞典、シェイクスピア全集の校訂、詩、そして『詩人列伝』。会話の名手で、その言葉はボズウェルの伝記に膨大に記録された。「ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ」。貧しい人々を家に住まわせ、猫のホッジのために自分で牡蠣を買いに行った。

関わったできごと(1)

ジョンソンの英語辞典AD1755年 · 編んだ

本文

サミュエル・ジョンソンは1709年9月18日、イングランド中部スタッフォードシャーの大聖堂の町リッチフィールドに生まれた。父マイケルは書店主で、母サラは40歳で彼を産んだ。赤ん坊は弱く、まもなく首のリンパ節が腫れる結核性の病(るいれき)にかかった。このため左の目はほとんど見えず、左の耳も聞こえなくなり、顔には傷あとが残った。当時、この病は国王が手で触れれば治ると信じられていた。1712年、2歳の彼は母に連れられてロンドンへ行き、アン女王に触れてもらった。病は治らなかったが、彼はそのとき渡された小さな金のしるしを、生涯首から下げていた。

サミュエル・ジョンソンの肖像(ジョシュア・レノルズ画)
サミュエル・ジョンソンの肖像(ジョシュア・レノルズ画)Wikimedia Commons Joshua Reynolds · Public domain

彼には生涯、意図しない体の動きと声があった。手を振り、頭を揺らし、口をもごもごさせ、戸口を通るときに奇妙な足取りをする。いまではトゥレット症候群だったと考えられている。初めて会った人の多くはその動きに驚き、そして話が始まるとすぐに忘れた、と書き残している。

少年は父の店の本を、手当たりしだいに読んで育った。1728年、オックスフォード大学のペンブルック・カレッジに入ったが、13か月で去った。金が尽きたのである。靴が破れて足がのぞいていたので、誰かが気の毒に思って部屋の戸口に新しい靴を置いておくと、彼はそれを投げ捨てた、という話が伝わっている。施しを受けることを、彼の誇りが許さなかった。

ジョンソンの妻エリザベス「テティ」・ポーター
ジョンソンの妻エリザベス「テティ」・ポーターWikimedia Commons Maria Verelst · Public domain

大学を去ったあと、彼は深いうつに沈んだ。気が狂うことへの恐れは、生涯、日記にくり返し現れる。教師の口を探し、自分で学校を開いたが、生徒は数人で、まもなくつぶれた。その数少ない生徒の一人が、のちの名優デイヴィッド・ギャリックだった。1735年、25歳の彼は、20歳年上の未亡人エリザベス・ポーター、愛称テティと結婚した。周りは反対したが、彼は生涯、妻を深く愛した。1737年、彼はギャリックとともにロンドンへ出た。

翌年、ローマの詩人をまねてロンドンの腐敗を風刺した詩『ロンドン』を出し、初めて評判を得た。それでも暮らしは楽にならず、彼は安い物書きの集まる界隈で、名を出さずに書いて食いつないだ。雑誌のために議会の議事を書く仕事もした。当時、議会の審議を報じることは禁じられていたので、雑誌は架空の国「リリパット」の元老院の議事という体裁をとった。ジョンソンは傍聴した知人から聞いた断片をもとに、演説の大半を自分で作り上げた。のちに彼は、ホイッグ党の連中に最良の台詞を与えないよう気をつけていた、と冗談めかして語っている。

1746年、ロンドンの書店主たちが、英語の辞書を一人の手で作る仕事を彼に依頼した(ジョンソンの英語辞典)。報酬は1500ギニーあまり。屋根裏部屋で、写字生を何人も使い、9年をかけた。語の意味を定めるために、シェイクスピアやミルトンら過去の書き手の文章から用例を集めて添えたのが、それまでの辞書にない工夫だった。その途中の1752年、妻テティが死んだ。彼は打ちのめされた。1755年に辞書が出たとき、その序文は、もう失うものも得るものもあまり持たない者の静かな言葉で結ばれていた。この辞書は、以後100年以上、英語の基準であり続けた。

ジョンソンの英語辞典に関わる図版:JohnsonDictionary
ジョンソンの英語辞典Wikimedia Commons Samuel Johnson · Public domain

辞書には、彼らしい皮肉な定義も混じっていた。オーツ麦は、イングランドでは馬に、スコットランドでは人に与えられる穀物。辞書を作る者は、害のない苦役者。年金とは、国家への反逆に対して雇われ人に与えられる手当、と書いた。ところが1762年、国王ジョージ3世は彼に年300ポンドの年金を与えた。彼はそれを受け取り、ようやく暮らしの心配から解き放たれた。定義は書き換えなかった。のちにダブリンのトリニティ・カレッジ(1765年)とオックスフォード(1775年)から博士の学位を受け、以後「ジョンソン博士」と呼ばれるようになる。

1763年5月16日、ある書店の奥で、彼は22歳のスコットランド人ジェームズ・ボズウェルに出会った。スコットランド人をからかうのが好きなジョンソンに、ボズウェルが、自分がスコットランドの出であるのはどうにもできません、と言うと、ジョンソンは、どうやら君の同郷人の多くもどうにもできないらしいね、と返した。以後21年、ボズウェルは彼と交わり、その会話を克明に書きとめた。1791年に出たボズウェルの『サミュエル・ジョンソン伝』は、英語で書かれた伝記の最高峰とされる。

イーディアル・ホール・スクール
イーディアル・ホール・スクールWikimedia Commons C. J. Smith Original uploader was Ottava Rima at en.wikipedia · Public domain

ジョンソンの仕事は辞書だけではない。随筆の定期刊行物『ランブラー』のほとんどを一人で書き、母の葬儀の費用を作るために物語『ラセラス』を短期間で書き上げた。1765年にはウィリアム・シェイクスピアの全集を校訂して出し、その序文は批評の古典になった。晩年の『英国詩人伝』は、52人の詩人の生涯と作品を論じ、彼の最高の仕事とみる人も多い。1773年、64歳の彼はボズウェルとスコットランドの西の果て、ヘブリディーズ諸島まで旅をした。日ごろからかっていた土地を、自分の足で見て記録を残したのである。

彼は会話の名手で、その言葉はいまも引かれる。ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ、ロンドンには人生が与えうるすべてがあるのだから。愛国心はならず者の最後の逃げ場である。これは愛国心そのものではなく、愛国を口実にする偽りを指した言葉とされる。金のためでなく書く者は愚か者だ。そして、二度目の結婚は経験に対する希望の勝利である。1764年には画家レノルズらと文人の会「クラブ」を作り、政治家バーク、作家ゴールドスミス、歴史家ギボン、経済学者アダム・スミスらと語り合った。

ジョンソン『ロンドン』第2版の表題紙
ジョンソン『ロンドン』第2版の表題紙Wikimedia Commons Samuel Johnson 1709-1784 Original uploader was Ottava Rima at en.wikipedia · Public domain

家では、行き場のない人々を住まわせた。目の見えない詩人アンナ・ウィリアムズ、貧しい人々をただで診ていた無資格の医者ロバート・レヴェット、そしてジャマイカ生まれで奴隷の身から解かれた少年フランシス・バーバー。バーバーは召使いとして迎えられ、ジョンソンの金で学校に通い、のちに遺言で主な相続人とされた。同居人たちは互いにいがみ合い、ジョンソンは日記で仲裁の疲れをこぼしたが、誰も追い出さなかった。彼は奴隷制に強く反対し、オックスフォードの晩餐で西インド諸島の奴隷たちの次の反乱に乾杯して、座を凍りつかせたという。

猫のホッジのためには、自分で牡蠣を買いに出かけた。召使いに頼めば、彼らがこの猫を嫌うようになると考えたからだと、猫嫌いのボズウェルが書きとめている。いま、彼が辞書を作ったロンドンのゴフ・スクエアの家の前には、牡蠣の殻の上に座るホッジの銅像がある。

サミュエル・ジョンソンの肖像(ジョン・オーピー画)
サミュエル・ジョンソンの肖像(ジョン・オーピー画)Wikimedia Commons After John Opie · Public domain

1784年12月13日、ジョンソンはロンドンで死んだ。75歳だった。遺体はウェストミンスター寺院に葬られた。片目と片耳が不自由で、体の動きを抑えられず、うつに苦しみ、生涯貧しさと戦った男は、英語の辞書を一人で作り、その言葉はいまも英語圏で毎日のように引かれている。

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