数を絵で見せる
概要
社会党が市政を握った「赤いウィーン」で、哲学者オットー・ノイラートは、社会と経済の博物館を開いた。住宅はいくつ足りないのか、乳児はどれだけ死んでいるのか。そうした数字を、学校に通えなかった労働者にも見てもらいたい。そこで、人や家や工場を簡単な形の記号にし、一つの記号が決まった数を表すと決めた。数が倍なら、記号を大きくするのではなく、数を倍に並べる。版画家ゲルト・アルンツが、その記号を一つずつ彫った。のちにこの方式はイソタイプと名づけられ、いまの図表や案内の記号の祖先になった。
場所
48.21°N 16.37°E · オーストリア
本文
第一次世界大戦に敗れて、オーストリア=ハンガリー帝国は解体された。ウィーンは、5千万の人口を抱えた帝国の都から、600万人あまりの小さな共和国の都になった。町には仕事が無く、食べ物も燃料も足りなかった。1919年の選挙で、ウィーンの市政は社会民主党が握った。のちに「赤いウィーン」と呼ばれる時代の始まりである。
市は、贅沢品や大きな家にかける税を財源に、労働者のための大きな集合住宅を次々と建てた。十数年で6万戸を超える住まいが用意され、保育所、診療所、公衆浴場、図書館が整えられた。だが、そのための税を払う側も、住まいを待つ側も、なぜそれが必要なのかを納得しなければならない。住宅はいくつ足りないのか。乳児はどれだけ死んでいるのか。結核にかかる人は、どの地区に多いのか。答えは数字にある。

その数字を、誰にでも分かる形で見せようとしたのが、オットー・ノイラート(1882〜1945年)である。ウィーン生まれの哲学者で経済学者、科学をあらゆる分野で一つの言葉で語ろうとした哲学者たちの集まり「ウィーン学団」の一員でもあった。戦後まもなくドイツのバイエルンで短く続いた革命政権で経済の計画を担い、そのために投獄されたこともある。ウィーンに戻った彼は、住宅協同組合の運動に関わり、1925年、市の支援を得て社会経済博物館を開いた。
ノイラートは考えた。数字は、表にすると、読める人にしか読めない。学校に十分通えなかった労働者にも、ひと目で分かるようにしたい。博物館は、珍しい品を並べる場所ではなく、社会の仕組みを見せる場所であるべきだ、と。そこで彼は、数を絵にする決まりを作った。

決まりは単純である。人、家、工場、船、牛などを、細部を省いた簡単な形の記号にする。一つの記号は、決まった数を表す。たとえば人の形一つが10万人、というように。そして、数が倍なら、記号を倍の大きさにするのではなく、同じ記号を倍の数だけ並べる。大きさで比べると、面積が4倍になって見えるなど、目がだまされる。数なら、数えられる。色は少なくし、同じ色には同じ意味を持たせる。同じ記号は、どの図でも同じものを表す。
記号を描いたのは、ドイツの版画家ゲルト・アルンツである。1928年ごろからノイラートと組み、翌年ウィーンに移ってきた。アルンツは記号をリノリウムの板に彫り、それを刷って図に貼り込んだ。彼が作った記号は、数千にのぼるとされる。どの記号も、斜めの線や余計な飾りを削ぎ落とし、遠くからでも見分けられる形になっていた。
もう一人、欠かせない人がいた。数学を学んだマリー・ライデマイスターである。統計の数字をどう絵にするか、何を見せて何を省くかを決める役を担い、のちにその仕事は「変換者」と呼ばれた。データと絵のあいだに立って、意味を損なわずに形へ移す仕事である。彼女はのちにノイラートの妻になる。
博物館の図は評判を呼び、1930年には世界の産業や人口や暮らしを100枚の図で見せる大きな図表集にまとめられた。ソ連にも招かれ、モスクワで同じ方式の研究所づくりに協力している。だが、ウィーンの実験は長くは続かなかった。1934年2月、オーストリアで政府と社会民主党の間に内戦が起き、党は禁じられた。モスクワに出かけていたノイラートは帰国せず、オランダのハーグへ移った。第二次世界大戦が始まり、1940年にドイツ軍がオランダに攻め込むと、彼とマリーは小舟で海に逃れ、イギリスへ渡った。敵国の人としてしばらく抑留されたあと、オックスフォードで仕事を続け、1945年に死んだ。
この方式は、亡命中の1930年代半ばに「イソタイプ」と名づけられた。英語の「絵による国際的な文字の教育の方式」の頭文字を取ったものである。「言葉は分け、絵は結ぶ」という言い方は、ノイラートの考えを表すものとして知られる。マリーはノイラートの死後もイギリスで仕事を続け、植民地から独立していくアフリカの国々の教科書や啓発の図も作った。
いま、新聞やテレビの図に人の形が並んでいるのを見ることがある。それはウィーンの博物館の子孫である。空港や駅の案内の記号、トイレの人の形、非常口へ走る人の形も、この考えを受け継いでいる。1964年の東京オリンピックで、日本のデザイナーたちが競技や施設の記号を作ったとき(言葉のいらない案内)、その道はさらに広がった。
ただし、ノイラートはイソタイプを言葉の代わりとは考えていなかった。言葉を助け、数の大きさを感じ取らせるものだ、と。絵だけですべてを伝えられるわけではない。何を数え、どう区切り、何を一つの記号にするかを決めるのは人であり、その選び方しだいで、同じ数字がまったく違って見える。数を絵にすることの力と危うさの両方を、ノイラートたちは最初から知っていた。