チェーザレ・ベッカリーア
概要
26歳で書いた薄い本が、拷問と死刑を正面から否定した最初の本になった。ヨーロッパの刑法が、この本のあとで書き換わっていく。
関わったできごと(1)
ベッカリーア『犯罪と刑罰』AD1764年 · 書いた本文
1738年3月15日、ミラノの貴族の家に生まれた。ミラノは当時オーストリアのハプスブルク家が治める公国で、家は侯爵の爵位を持っていた。パルマのイエズス会の学校で8年を過ごしたが、その教育を後に、人間らしい感情を押しつぶすものだったと振り返っている。パヴィアで法を学び、1758年に学位を得た。

若いころの事件は、家との衝突だった。持参金の少ない娘テレーザと結婚したいと言い出し、父に反対されて自宅に閉じ込められた。それでも1761年に結婚を押し通し、しばらくは父の援助も受けられずに暮らした。
そのころ、ミラノの若い貴族ピエトロとアレッサンドロのヴェッリ兄弟が、仲間を集めて読書会を開いていた。議論が激しく、「拳の会」と呼ばれた。ベッカリーアはそこに加わり、友人たちの読書会でモンテスキューとルソーを読んだ(モンテスキュー、ジャン=ジャック・ルソー)。フランスで広がる啓蒙の思想を、イタリアでどう生かすかが仲間の関心だった。兄弟は雑誌『イル・カッフェ』を出し、ベッカリーアも寄稿した。

当時のヨーロッパの刑事裁判では、拷問は自白を得るための正規の手続きだった。死刑は広く行われ、車裂きや火あぶりのような、苦しみを長引かせる処刑も残っていた。罪と罰の釣り合いは裁判官の裁量に任され、身分によって罰も変わった。兄のアレッサンドロ・ヴェッリは、ミラノの監獄を訪ねる役目にあり、その実態を仲間に伝えていた。
26歳で『犯罪と刑罰』を書いた(ベッカリーア『犯罪と刑罰』)。友人のヴェッリ兄弟が題材を出し、議論を整えたとされる。1764年、教会や当局の目を避けて、著者の名を伏せてトスカーナのリヴォルノで出版された。本人は内気で、書くことはできても話すことは苦手だった。

本は短い。そこに書かれているのは、明快な理屈だった。人々は社会を作るとき、自分の自由のごく一部だけを差し出したのであって、誰も自分の命を奪う権利まで差し出してはいない。罰は、罪を防ぐのに必要な分だけでよく、それを超えれば暴政である。罰を重くするより、必ず速やかに罰せられることのほうが、罪を防ぐ力は大きい。拷問は、痛みに強い罪人を逃し、弱い無実の者を罪に落とす。死刑は見物人の心を荒ませるだけで、終身の労役のほうが見せしめとしても効く。国の目的は、最大多数に分かち合われる最大の幸福だ、という言い方もこの本にある。のちにイギリスのベンサムが功利主義の旗印にした言葉である。
本はすぐにヨーロッパ中で読まれた。1766年にはフランス語に訳され、ヴォルテールが注釈を書いた。同じ年、ローマ教会は本を禁書の目録に入れた。ロシアの女帝エカチェリーナ2世は、法典編纂のための訓令にこの本の考えを大量に取り込み、ベッカリーアをロシアに招いたが、彼は応じなかった。
パリに招かれたが、社交に耐えられず数週間で帰った。1766年の秋、アレッサンドロ・ヴェッリと連れ立ってパリの思想家たちのサロンに迎えられたが、人前に出ることに疲れ、妻恋しさもあって、一人で早々にミラノへ戻った。この旅をきっかけに、ヴェッリ兄弟とは仲違いし、本の手柄をめぐる苦い思いが後まで残った。それきり、ほとんど何も書いていない。
ミラノで経済学を教え、行政の役人として生涯を終えた。1768年にミラノの学校で官房学(経済学)の教授となり、のちにはオーストリア領ロンバルディアの役所で、貨幣や穀物、度量衡の改革に携わった。刑法の改正を検討する委員会に加わり、晩年には、死刑はごく限られた場合を除いて廃止すべきだとする意見書に名を連ねている。
1794年11月28日、ミラノで脳卒中のため死んだ。56歳。隣国フランスでは革命の恐怖政治が、ギロチンで多くの人の首を落とした直後だった(フランス革命)。娘の子は、のちにイタリアを代表する作家となるアレッサンドロ・マンゾーニである。

拷問と死刑を正面から否定した本は、これが最初になる。1786年、トスカーナ大公レオポルトは、ヨーロッパの国で初めて死刑と拷問を法から除いた。各国の拷問の廃止(拷問の廃止)や、アメリカ合衆国の建国者たちの刑罰の考え方にも、この本は影響を与えた。本人がそれ以上何もしなかったことと、本がその後の刑法を書き換えたことは、別の話になる。