ナーランダー僧院の創建
概要
数千人が学ぶ、記録に残る最古級の大学になる。中国、朝鮮、チベット、スリランカから留学生が来た。玄奘も5年ここで学んでいる。
場所
25.14°N 85.44°E · インド・ビハール州
関わった人(1)
ナーガールジュナAD150年頃–AD250年頃 · その学統の祖本文
ガンジス川の中流、いまのインドのビハール州に、ナーランダーという村がある。5世紀の前半、ここに大きな僧院が建てられた。後にここを訪れた玄奘は、建てたのはシャクラーディティヤという王だと書いている。この王は、グプタ朝の黄金時代を治めたクマーラグプタ1世のことだとする見方が有力で、創建はおよそ415年から450年のあいだと考えられている。正確な年は分からない。
建物は一代で終わらなかった。歴代の王が新しい僧院や寺を寄進し、敷地は広がっていった。7世紀には北インドを治めたハルシャ王が保護し、8世紀からはベンガルのパーラ朝が支えた。発掘で見つかった区画だけでも、煉瓦造りの僧坊が並び、それぞれに中庭と井戸と講義の場があった。僧たちは小さな個室に住み、寄進された村々の収入で暮らした。

学ぶ者は数千人いた。玄奘の伝記は1万人と書き、7世紀後半に10年ほど学んだ義浄は3000人あまりと記している。数字に幅はあるが、同じ時代の世界で、これほどの人数が一か所に住み込んで学ぶ場所はほとんど無かった。
入るのは易しくなかった。玄奘の『大唐西域記』によれば、外から来て議論に加わろうとする者には、門を守る者がまず難しい問いを出した。答えられずに引き返す者が十人に七、八人いたという。入ってからは、朝から晩まで講義と問答が続いた。

学ぶものは仏教の教えだけではなかった。仏教の中でも大乗の諸派、とくにナーガールジュナに始まる中観派の学問がここで深められ、のちに学統の祖として仰がれた(ナーガールジュナの中論)。加えて、文法、論理学、医学、そしてバラモンの聖典であるヴェーダも講じられた。論敵の考えを知らなければ、議論に勝てないからである。
玄奘がここに着いたのは630年代の初めだった。長安を出て西域を越え、何年もかけてたどり着いている(玄奘の西域行)。彼は老いた学僧シーラバドラ(戒賢)に師事し、およそ5年学んだ。インドを去るとき、彼は大量の経典を携えて帰り、中国の仏教を大きく変えることになる。中国のほか、朝鮮、チベット、スリランカ、中央アジアからも学ぶ者が来た。

書物の蔵は、チベットに伝わる後世の記録によれば「ダルマガンジャ(法の宝庫)」と呼ばれ、その中に「宝の海」を意味する名の建物などがあって、一つは9階建てだったという。この記述は伝承で、発掘で確かめられたものではない。
12世紀の終わり、北インドにイスラーム勢力が進出してきた。トルコ系の武将バフティヤール・ハルジーの軍がビハールの僧院を襲ったことが、ペルシア語の年代記に記されている。ナーランダーもこの頃に破壊されたとされる。書物が何か月も燃え続けたという話は、後世の伝承として語られているものである。ただ、ナーランダーは一度で消えたのではない。1230年代にここを訪れたチベットの僧は、荒れた僧院でなお老師が少数の弟子に教えていたと記している。保護者だったパーラ朝はすでに衰えており、インドの仏教そのものが、この頃までに支えを失っていた。やがてデリー・スルタン朝の成立が北インドを治める時代になる。

その後、僧院は土に埋もれ、場所も忘れられた。19世紀、イギリスの考古学者アレクサンダー・カニンガムが、玄奘の記録にある距離と方角を頼りに、この地をナーランダーと突き止めた。20世紀初めから本格的な発掘が進み、僧坊と寺の列が姿を現した。遺跡は2016年に世界遺産に登録されている。
いま、遺跡の近くには同じ名を持つ新しい大学がある。千年以上前、旅の僧が書き残した道のりが、大学の場所を教えた。