『ローマ帝国衰亡史』の刊行
概要
第1巻が出た年は、アメリカ独立宣言と『国富論』の年でもある。1788年に全6巻。ローマが「なぜ滅びたか」を問う型を、以後の全員がこの本から引き継ぐ。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
エドワード・ギボンAD1737年5月8日–AD1794年1月16日 · 著者本文
エドワード・ギボンは1737年、ロンドンの近くの裕福な家に生まれた。体が弱く、学校にはほとんど通えなかったが、病床で歴史書を読みふけった。15歳でオックスフォードに入ったものの教師たちに失望し、自分で本を読むうちにカトリックに改宗してしまう。驚いた父は息子をスイスのローザンヌに送り、プロテスタントの牧師の家に預けた。ギボンはそこでプロテスタントに戻り、フランス語とラテン語を身につけ、5年をかけて古典を読み抜いた。
1764年、ギボンはイタリアを旅し、ローマに着いた。自伝によれば、10月15日の夕暮れ、カピトリウムの廃墟に座っていると、かつてユピテルの神殿があった場所で、裸足の修道士たちが晩祷を歌っていた。そのとき、この都市の衰えと滅亡を書こうという考えが初めて浮かんだという。出来すぎた話で、自伝の下書きごとに書き方も少し違う。だが、本人がそう書いた。
構想から10年あまりで、1776年2月、ロンドンで第1巻が出た。アメリカの独立宣言の5か月前、アダム・スミスの『国富論』の1か月前になる(『国富論』)。第1巻は、2世紀の五賢帝の時代の平和を描くところから始まる。人類が最も幸福だった時代を挙げよと言われれば、ドミティアヌスの死からコンモドゥスの即位までを挙げるだろう、という一節はよく知られている。そこから帝国が傾いていく過程を、皇帝ごとに、戦争ごとに追っていく。

第1巻はよく売れ、初版はすぐに尽きた。文人たちは文体を絶賛した。同時に、最後の第15章と第16章が激しい非難を浴びた。キリスト教がなぜ帝国に広まったのかを、神の導きや奇跡によってではなく、信者の熱意、来世の約束、奇跡を信じる心、規律ある組織といった人の事情で説明したからだ。殉教者の数も、教会が言うほど多くはなかったと論じた。聖職者たちが反論を書き、ギボンは弁明の文章を出して応じた。
ギボンは歴史を書きながら、下院の議員でもあった。アメリカの独立戦争では政府の側を支持し、通商の役職にも就いている。1781年に第2巻と第3巻を出し、西ローマ帝国の滅亡までを書いた。その後ローザンヌに移り住み、東の帝国の歴史を書き進めた。
最後の一行を書いたのは、1787年6月27日の夜だった。自伝によれば、ギボンは庭の東屋でペンを置き、月明かりの湖と山を眺めながら並木道を歩いた。自由を取り戻した喜びと同時に、長年の友と別れる寂しさを感じた、と書いている。1788年、第4巻から第6巻が出て、全6巻が完結した。最後は1453年のコンスタンティノープル陥落と、廃墟となった中世のローマの姿で終わる。2世紀から15世紀まで、1300年あまりを書き通したことになる。

全体を振り返ってギボンは、自分は野蛮と宗教の勝利を描いてきた、と書いた。帝国を滅ぼしたのは、外から来た蛮族と、人びとの関心を来世へ向けさせたキリスト教だ、という見方になる。この見方はのちに、あまりに単純だと批判されていく。
新しかったのは、脚注になる。記述のほとんどに出典を付け、史料どうしが食い違えばそれも書き、古い歴史家の誤りを指摘した。皮肉の効いた文体は、本文よりも脚注にいちばんよく出ている。物語として読ませる力と、史料に基づく厳密さを、一つの本で両立させた。近代の歴史学の手本の一つとされるのは、そのためだ。

ギボンは1794年にロンドンで死んだ。『ローマ帝国衰亡史』は200年以上読み継がれ、いくつもの言葉に訳された。「衰亡」という枠組みは、その後の全員に引き継がれた。帝国の終わりを衰えではなく、新しい世界への変わり目として描く20世紀後半からの古代末期の研究も、この本に反論する形で書かれている。ローマはなぜ滅びたのか、という問いを立てたこと自体が、この本の残したものになる(西ローマ帝国の滅亡)。