人物

幸徳秋水

Kōtoku Shūsui
AD1871年11月5日 – AD1911年1月24日(享年39)
日本重要度 3

概要

土佐の生まれで中江兆民の弟子。『廿世紀之怪物帝国主義』を書き、日露戦争に反対して『平民新聞』を出し、渡米してアナキズムに転じた。大逆事件で首謀者とされ、絞首刑。裁判で「私は計画を知らない」と言った。

所属

日本

関わったできごと(1)

大逆事件AD1911年1月24日 · 処刑

本文

幸徳秋水は、1871年、土佐の幡多郡中村(いまの高知県四万十市)で、酒造と薬種の商いを営む家に生まれた。本名は伝次郎。数えで2歳のとき父が死に、母の手で育てられた。少年の頃から漢学に秀で、土佐で盛んだった自由民権運動の熱気の中で育った。

『近代婦人史』の挿絵
『近代婦人史』の挿絵Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1887年、16歳で東京に出たが、その年の末、政府が民権派を東京から追い払った保安条例によって、東京を追われた。翌年、大阪にいた民権思想家の中江兆民の書生になり、その家に住み込んで学んだ。「秋水」の号は、兆民が『荘子』の篇の名から与えたものである。兆民からは、フランス流の自由と平等の思想と、権力に媚びない文章の気骨を受け継いだ。

新聞の記者になった秋水は、1898年、黒岩涙香の『万朝報』に入り、鋭い論説で名を知られた。同じ年、片山潜らと社会主義の研究会を作った。1901年4月には『廿世紀之怪物帝国主義』を出した。帝国主義は、愛国心を縦糸とし、軍国主義を横糸として織られたものだとし、軍備と植民地の拡張が民衆を貧しくすると論じた。帝国主義を批判したイギリスのホブソンの著書より1年早く、レーニンの著書より16年早い。翌月、安部磯雄、片山潜、木下尚江らと日本で最初の社会主義の政党、社会民主党を作ったが、届け出の直後に禁止された。この年の12月、足尾銅山の鉱毒に苦しむ人々のために田中正造が天皇に直訴したとき、その訴えの文を書いたのは秋水だった(足尾鉱毒事件)。

1903年、ロシアとの戦争が近づくと、それまで戦争に反対していた『万朝報』が開戦を支持する側に回った。秋水は、堺利彦、内村鑑三とともに社を去り、堺と平民社を作って週刊の『平民新聞』を出した。1904年に日露戦争が始まると、戦争は平民の敵だと論じ、ロシアの社会主義者に向けて、国は違っても同じ労働者は兄弟だと呼びかける文を載せた。この年の秋には、堺とともに『共産党宣言』を初めて日本語に訳して載せ、新聞は発売を禁じられた。

日露戦争に関わる図版:RUSSOJAPANESEWARIMAGE
日露戦争Wikimedia Commons Original uploader and author was Dustandshadow at en.wikipedia · Public domain

1905年2月、秋水は新聞の記事の罪で5か月、巣鴨の監獄に入った。獄中でロシアの無政府主義者クロポトキンの本を読み、彼は思想を大きく変えた。のちに、自分はマルクス主義の社会主義者として入獄し、急進的な無政府主義者として出獄した、とアメリカの友人への手紙に書いている。出獄後、彼はアメリカに渡り、サンフランシスコとオークランドで現地の無政府主義者や日本人の移民と交わり、1906年4月のサンフランシスコ大地震に遭った。

1906年6月に帰国すると、秋水は、選挙と議会で社会を変えようとするやり方を退け、労働者が一斉に仕事を止めるゼネストなどの「直接行動」を唱えた。議会を重んじる片山潜らとの間で、社会主義の運動は割れた。政府の取り締まりは強まり、1908年、社会主義者たちが赤い旗を掲げて警官と衝突した赤旗事件で、堺や大杉栄、山川均らが獄に入った。郷里の中村にいた秋水は、その場にいなかった。病がちだった彼は、上京後、管野スガとともに暮らした。

幸徳秋水、妻の千代子
幸徳秋水、妻の千代子Wikimedia Commons Unknown photographer · Public domain

1910年、長野県で、天皇を爆弾で襲う計画を立てていた宮下太吉らが捕まった。政府はこれを機に、全国の社会主義者と無政府主義者を一斉に捕らえ、秋水を首謀者とした(大逆事件)。秋水は計画の話を聞いたことはあったが、実行には関わっていなかったとみられる。26人が起訴され、裁判は非公開で、証人も呼ばれないまま、1911年1月18日、24人に死刑が言い渡された。うち12人は天皇の恩赦で無期懲役に減じられたが、秋水らは1月24日に絞首刑になった。39歳だった。管野スガは翌日に処刑された。

獄中で、秋水は弁護士に宛てた長い文を書き、無政府主義とは暴力や暗殺のことではなく、権力の強制の無い社会をめざす思想だと説いた。この「陳弁書」は、歌人の石川啄木が書き写して残した。最後の著作『基督抹殺論』は、キリストは実在しなかったと論じた本で、死の直後に出版された。

平民社の社屋。左隅で扇子を持っているのが幸徳秋水。中央で紋付を着てステッキを持っているのが堺利彦(1904年8月撮影)。
平民社の社屋。左隅で扇子を持っているのが幸徳秋水。中央で紋付を着てステッキを持っているのが堺利彦(1904年8月撮影)。Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

大逆事件は、その後の日本の社会主義の運動を長く「冬の時代」に閉じ込めた。作家の徳冨蘆花は、事件の直後、第一高等学校の講堂で、彼らは謀叛人ではなく志士だったと語った。戦後、事件はでっち上げだったとする研究が進み、生き残った者が裁判のやり直しを求めたが、認められなかった。2000年、郷里の中村市の議会は、秋水の名誉を回復する決議をした。秋水は、師の兆民が死の前に書いた『一年有半』の出版を助け、師の伝記『兆民先生』を書いている。墓は郷里の寺にある。

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