ヒュパティアの死
概要
数学者が街の宗教対立のなかで群衆に殺された。アレクサンドリアの学問の終わりの象徴として引かれる。
場所
31.20°N 29.92°E · エジプト
関わった人(1)
ヒュパティアAD355年頃–AD415年 · 当人本文
ヒュパティアは、アレクサンドリアの数学者テオンの娘として育った。父とともにクラウディオス・プトレマイオスの天文学書(『アルマゲスト』)の注釈に携わり、ディオファントスの算術やアポロニオスの円錐曲線論にも注釈を書いたと伝えられる。ただ、本人の著作はひとつも残っていない。人物像は、弟子の書簡と、事件を記した教会史家たちの記述から組み立てられている。
彼女は数学と天文学に加え、プロティノスの新プラトン主義の流れをくむ哲学を教えた。弟子の一人シュネシオスは後にキリスト教の司教になったが、生涯ヒュパティアを「母、姉、師」と呼んで手紙を送り続けた。その手紙の中で、水の比重を測る器具を作ってほしいと頼んでいる。アストロラーベの改良に関わったという話も、この弟子の記述による。

女性が公の場で哲学を講じることは、当時ほとんど例が無かった。後の哲学者ダマスキオスによれば、彼女は哲学者の外套をまとって町を歩き、求める人には誰にでもプラトンやアリストテレスを説いた。言い寄ってきた弟子に、月のものの布を見せて「あなたが愛しているのはこれで、美しいものではない」と諭した、という逸話も伝わる。真偽は確かめようがないが、近寄りがたいほど自分を律した人として記憶されていたことは分かる。
当時のアレクサンドリアは、緊張した町だった。391年には異教の大神殿セラペウムが、総司教テオフィロスのもとで破壊されている。412年、その甥のアレクサンドリアのキュリロスが総司教を継いだ。キュリロスは町のユダヤ教徒と衝突し、皇帝の代官である総督オレステスと激しく対立した。ある時は修道士の群れが総督を襲い、投石で傷を負わせている。

ヒュパティアは町の有力者に重んじられ、総督とも親しかった。総督と総司教が和解できないのは彼女のせいだ、という噂が、キリスト教徒の間に広まったとされる。5世紀の教会史家ソクラテス・スコラスティコスは、この噂を事件の原因として書いている。
415年3月、四旬節のさなかだった。朗読者ペトロスに率いられた一団が、帰宅途中の彼女を馬車から引きずり降ろし、カエサレウムと呼ばれた教会に連れ込んだ。衣服をはぎ、瓦か陶片で殺し、遺体を切り裂いて、市外で焼いたという。ソクラテスは、キリスト教徒として恥ずべき行いだと書き添えている。

年齢ははっきりしない。生年を355年ごろとすれば60歳前後になり、370年ごろとする説に立てば40代半ばになる。キュリロスが殺害を命じたかどうかも、史料からは確かめられない。ソクラテスは責任を教会側に帰したが、7世紀の主教ヨハネスは、彼女を魔術で人を惑わす異教徒として描き、殺害を正当化している。
「科学と宗教の対立」の象徴として語られるようになったのは、18世紀の啓蒙思想家たちが教会批判の題材に取り上げてからである。だが実際には、総督と総司教の権力争いの中で起きた事件だった。彼女の弟子にはキリスト教徒も多く、学問そのものが標的になったわけではない。

事件の後、宮廷は総司教の配下の力を抑えにかかった。416年の法は、総司教に仕えて病人の世話をする「パラバラニ」と呼ばれる人々の数を500人に限り、劇場や法廷に群れで押しかけることを禁じた。総督オレステスの名は、その後の記録から消える。キュリロス本人は431年のエフェソス公会議で神学論争を主導し、後に聖人として崇められるようになった。
アレクサンドリアの学問も、ここで終わってはいない。哲学の学校はその後も続き、6世紀にはピロポノスがアリストテレスの注釈を書いている。それでもヒュパティアの死は、アレクサンドリアの図書館の消滅と並んで、古代の学問の都が終わりに向かう場面として繰り返し引かれてきた。