人物

セビリアのイシドルス

Isidore of Seville
AD560年頃 – AD636年4月4日(享年76・推定)
西ゴート王国重要度 5

概要

兄レアンデルの後を継いでセビリアの司教。兄の代に西ゴートの王レカレドがアリウス派からカトリックに改めていた。トレド公会議。『語源』『ゴート族の歴史』『事物の本性』。「教育は野蛮に対する砦」。1997年、ヨハネ・パウロ2世がインターネットの守護聖人に。

所属

西ゴート王国

関わったできごと(1)

イシドルス『語源』AD630年頃 · 著者

本文

560年ごろ、イベリア半島の南東の港町カルタヘナで生まれた。セビリアで生まれたとする説もある。父セウェリアヌスの一家は、東ローマ帝国の軍が半島の南東を占領したのを機に、カルタヘナを離れてセビリアに移ったとされる。4人の兄弟姉妹は、長兄レアンデルがセビリアの司教、兄フルゲンティウスがエシハの司教、姉フロレンティナが修道女となり、イシドルスも含めて4人とも聖人に数えられている。両親を早く亡くしたイシドルスは、ずっと年上の長兄に育てられた。厳しい教育だったと伝えられる。

当時の半島を治めていたのは、ゲルマン系の西ゴート王国だった。5世紀に西ゴートのローマ略奪で名を轟かせた彼らは、ガリアを経てイベリアに王国を築き、トレドを都にしていた。支配者のゴート人は、キリストを父なる神より下に置くアリウス派を信じ、住民の大多数を占めるローマ系の人々はカトリックだった。この信仰の違いが、王国を二つに割っていた。長兄レアンデルは、東ローマの都コンスタンティノープルで、のちの教皇グレゴリウス1世と親しくなり、帰国すると王子レカレドをカトリックへ導いた。589年の第3回トレド公会議で、王となったレカレドはアリウス派を捨て、王国はカトリックで一つになった(西ゴートのカトリック改宗)。

西ゴートのローマ略奪に関わる図版:Visigoths sack Rome
西ゴートのローマ略奪Wikimedia Commons Joseph-Noël Sylvestre · Public domain

600年ごろレアンデルが亡くなり、イシドルスがセビリアの司教を継いだ。それから36年にわたって、彼は王国の教会の中心にいた。619年にセビリアで、633年にはトレドで公会議を主宰した。633年の第4回トレド公会議は、司教座ごとに聖職者を育てる学校を置くことを定めている。この会議はまた、ユダヤ人を力ずくで改宗させてはならないと決めた。シセブト王が在位中にユダヤ人に強制的な洗礼を命じていたことへの批判だったが、同時に、すでに洗礼を受けた者がユダヤ教に戻ることは許さないとした。寛容と強制が同じ条文に並ぶところに、時代の限界が見える。

彼の名を後世に残したのは、膨大な著作である。シセブト王に献じた『事物の本性について』では、日食や月食、雷や潮の満ち引きを古代の書物にもとづいて説明した。『ゴート族、ヴァンダル族、スエビ族の歴史』は、半島を治めた民族の歴史で、冒頭に「スペインの讃歌」を置き、すべての土地の中で最も美しい母なるスペインよ、と呼びかけた。ほかに天地創造から当代までの年代記、著名な人々の列伝、教会の職務の解説、神学の要点を集めた『命題集』などがある。

セビリアのイシドルスの肖像
セビリアのイシドルスの肖像Wikimedia Commons Bartolomé Esteban Murillo · Public domain

最も大きな仕事が、全20巻の『語源』である(イシドルス『語源』)。文法、修辞学、論理学に始まり、算術、幾何、音楽、天文学、医学、法律、聖書と教会、神と天使、人間と怪物、動物、宇宙と地理、建物、石と金属、農業、戦争と競技、船、衣服、道具まで、当時知られていたことを、言葉の成り立ちを手がかりに順に並べた。ギリシア・ローマの古典の多くが西ヨーロッパで読めなくなりつつあった時代に、その知識の要点を一つの書物に集めたことになる。語源の説明には、今日から見れば明らかな誤りも多い。それでも、知識を項目に分けて並べ、引けるようにしたこの書物は、中世を通じて修道院の図書館に必ず置かれ、千に近い写本が今日まで残っている。巻の中にある、世界を丸い大地を三つの大陸に分けて描いた簡単な図は、1472年に刊行された版で、ヨーロッパで最初に印刷された世界地図となった。

『語源』の中で、彼は王という言葉を「治める」という動詞から説き、古い格言として、正しく行えばあなたは王であろう、行わなければ王ではない、という言葉を引いている。王の位は血筋ではなく正しい統治によって支えられる、という考えである。西ゴート王国では王が暗殺や反乱で次々と替わり、教会の公会議が王の選び方や王への忠誠を定めるようになっていた。イシドルスの言葉は、その王国の現実の中から出てきたものだった。

1472年にドイツで出版された『語源』
1472年にドイツで出版された『語源』Wikimedia Commons Isidore of Seville · Public domain

『語源』は晩年まで書き継がれ、完成を見ずに残された。彼は友人であるサラゴサの司教ブラウリオに原稿を送り、直してほしいと頼んでいる。今日の形に20巻を整えたのは、ブラウリオだとされる。

636年4月4日、セビリアで亡くなった。死の様子は弟子の一人が書き残している。死期を悟った彼は教会に運ばせ、灰をかぶり粗布をまとって、民衆の前で自分の罪を告白し、赦しを願い、持っている物を貧しい人に分けるよう命じた。その数日後に息を引き取った。

『語源』の12世紀ごろの写本に記載されたTO図
『語源』の12世紀ごろの写本に記載されたTO図Wikimedia Commons Isidore of Seville · Public domain

それから75年後の711年、イスラムの軍が海峡を渡り、西ゴート王国はあっけなく滅んだ。セビリアもイスラムの町となった。1063年、北のレオン王フェルナンド1世は、セビリアのイスラム君主から彼の遺骸を譲り受けてレオンに運び、それを納めるサン・イシドロ教会が建てられた。ダンテは『神曲』の天国篇で、太陽の天にいる知者の一人として彼の名を挙げている。1722年に教会博士とされた。

「古代最後の学者」とも呼ばれる。彼の後、西ヨーロッパで知識をこれほど広く一人で集めた人は、何百年も現れなかった。知識を項目に分けて並べ、誰でも引けるようにした彼の仕事を、後の時代の百科事典や検索になぞらえる人は多く、インターネットの守護聖人にふさわしいという声もある。もっとも、教皇庁が正式にそう定めたことはない。

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