全人的な痛み
概要
シシリー・ソンダースは看護師、医療ソーシャルワーカーを経て、四十歳近くで医師になった。死にゆく人の痛みを見て、それが身体だけのものではないと考えた。体の痛み、気持ちの痛み、社会から切り離される痛み、そして意味を失う痛み。彼女はこれを「全人的な痛み」と呼んだ。痛みが来てから薬を出すのではなく、来る前に定時で与える。眠らせるためではなく、起きていられるために。ロンドン郊外に開いたセント・クリストファー・ホスピスから、この考え方が世界へ広がった。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
シシリー・ソンダース(1918〜2005年)は、三つの資格を順に取った人である。オックスフォード大学で学んでいたとき戦争が始まり、彼女は大学を離れて看護師の道に入った。しかし背中を痛めて、看護の仕事を続けられなくなった。大学に戻って学業を終えると、今度は病院の医療ソーシャルワーカーになった。患者の病気ではなく、患者の暮らしの側を受け持つ仕事である。そして30代になってから医学校に入り直し、1957年に医師の資格を得た。なぜそこまでしたのか。そこには一人の患者との出会いがあった。
1948年、ソーシャルワーカーとして彼女が受け持った患者に、デイヴィッド・タスマというポーランド出身のユダヤ人がいた。ワルシャワから逃れてイギリスへ来た人で、40歳で、癌で死にかけていた。二人は病室で長く話し込んだ。死んでいく人のための場所が要る、ただ痛みを抑えるだけでなく、その人が最後まで人として扱われる場所が。タスマは亡くなるとき、彼女に500ポンドを遺した。「あなたの家の窓になりたい」と言ったと伝えられる。のちに建てられたホスピスには、この言葉にちなむ窓がある。
医師になろうと決めたのは、ある外科医の助言による。死にゆく人を見捨てているのは医師たちであり、医師でなければ言うことを聞いてもらえない、だから医学を学べ、と言われたのである。看護師やソーシャルワーカーがいくら訴えても、病院の治療の仕方を変えることはできなかった。
医師になった彼女は、ロンドン東部の聖ヨセフ・ホスピスで、修道女たちが営む死にゆく人の施設に通い、痛みの扱い方を一つずつ試して記録した。当時の病院では、末期の患者の痛み止めは「必要なときに」与えるのが普通だった。患者は痛みが耐えられなくなってから看護師を呼び、待ち、ようやく注射を受ける。これでは薬が効いているあいだも、患者は次の痛みが来るのを恐れて過ごすことになる。恐れは痛みをいっそう強くし、薬を頼むこと自体が負い目になる。強くなった痛みを抑えるには、より多くの薬が要る。
ソンダースはこれを逆にした。痛みが来るのを待たず、時計で決めた時刻に薬を与える。量は一人ひとりに合わせて探り、調整する。痛みの先回りをするのである。注射ではなく、モルヒネの単離以来使われてきたモルヒネを口から飲む形で、少しずつ量を整えていった。そして目的は、患者を眠らせることではなかった。起きていられること、話し、食べ、家族や友人に会える状態を保つことを目指した。
もう一つ、彼女がはっきり言葉にしたことがある。痛みは体だけのものではない。ある女性の患者に痛みのことを尋ねると、自分のすべてが痛いのだ、という意味の答えが返ってきた。ソンダースはここから「全人的な痛み」という考えを組み立てた。体の痛み。不安や怒りや落ち込みといった心の痛み。仕事を失い、家族に負担をかけ、見舞いが途絶えていく社会的な痛み。そして「なぜ私なのか」と問い、生きてきた意味が崩れていく魂の痛み。この四つは絡み合っている。ただし順番がある。まず体の痛みを確実に抑えなければ、残りの三つに向き合う余地は生まれない。痛みに支配されている人は、話すこともできないからである。
麻薬性の薬を定時で与えることには、依存を招くと繰り返し反対された。ソンダースらが記録から示したのは、痛みのある人に痛みに見合った量を与えても、陶酔や依存にはなりにくいということだった。これは末期の癌の患者を丁寧に見守った上での観察だった。ところが数十年後、この観察は都合よく引き伸ばされる。末期癌に当てはまることが、あらゆる長引く痛みに当てはまると言い換えられ、鎮痛薬の大量の処方につながった(オキシコンチン)。
ホスピスを建てる資金を集めるのに、10年近くかかった。1967年7月、ロンドン南部のシデナムにセント・クリストファー・ホスピスが開いた。旅人の守護聖人の名である。彼女が病院とは別の場所を作ったのには理由がある。病院は治すための場所で、治せないと分かった患者には「もうすることはない」と告げられ、病棟の奥へ移される。ソンダースはそれを認めなかった。あなたにできることはまだある、あなたはあなたであるから大切であり、最後の瞬間まで大切だ、という意味の言葉を、彼女は残している。
セント・クリストファーは、看取るだけの施設にはしなかった。痛みの抑え方を測り、記録し、論文にする研究と、医師や看護師を教える教育を、同じ場所で行った。それが緩和の技術を医学として認めさせるのに必要だった。家族も迎え入れた。面会の時間を厳しく区切らず、子どもも入れ、患者が亡くなった後も遺された家族を支えた。家で最期を迎えたい人のための訪問の仕組みも、まもなく作られた。
この考え方は海を渡った。ソンダースは1963年にアメリカのイェール大学で講演し、それを聞いた看護学の教員たちが動いて、1974年にコネティカット州でアメリカ最初のホスピスが活動を始めた。アメリカでは家で過ごす人を訪ねる在宅型が主流になり、1980年代には高齢者の公的医療保険がホスピスの費用を払うようになった。日本では1981年に浜松の聖隷三方原病院にホスピスができ、1984年に大阪の淀川キリスト教病院が続いた。1990年には緩和ケアの病棟が診療報酬の対象になった。
名前も広がった。1975年、カナダのモントリオールで、医師バルフォア・マウントが「緩和ケア」という言葉を使い始めた。フランス語では「ホスピス」が貧しい人を収容する施設を思わせたためである。緩和ケアはやがて、死の直前だけでなく、重い病気と分かった早い段階から受けるものへと考えが広がった。1986年、世界保健機関の設立は癌の痛みの治療の指針を出し、弱い薬から強い薬へ段階を追って、時刻を決めて、口から、一人ひとりに合わせて与えるという原則を示した。三段の階段の図で知られ、世界中の医療者がこの図で痛みの治し方を学んだ。
ソンダースは晩年まで執筆と講演を続け、1980年にデイム(男性のナイトにあたる称号)に叙され、同じ年、長く親しかったポーランド出身の画家と結婚した。2005年、彼女は自分が作ったセント・クリストファー・ホスピスで亡くなった。87歳だった。
彼女が変えたのは、薬そのものではない。モルヒネは19世紀の初めに取り出され、麻酔は笑気ガスの見世物やエーテル麻酔の公開の時代から知られていた。足りなかったのは、それをいつ、どれだけ、誰に与えるかという設計であり、痛みを症状の一つとしてだけ扱わない見方だった。そして「痛みを我慢させない」という正しい主張が、のちに薬を売るための言葉にも使われた。同じ言葉が、誰の口から何のために出るかで、意味が変わるのである。