人物

クリティアス

Critias
BC460年 – BC403年(享年57・推定)
アテナイ重要度 3

概要

プラトンの母の従兄弟。ソクラテスの弟子。詩人、悲劇作家、「神は賢い人間の発明」と書いた。三十人の首領。テラメネスを毒杯に送った。ムニキアでトラシュブロスと戦って死んだ。ソクラテスの裁判で「彼はクリティアスの師だった」と言われた。

所属

アテナイ

関わったできごと(2)

三十人政権BC404年 · 首領ソクラテスの死BC399年 · 元弟子だったことが罪状に

本文

クリティアスは紀元前460年ごろ、アテナイの名門の家に生まれた。父カライスクロスの家は、アテナイの法を定めた賢人ソロンの一族に連なると称していた。クリティアスの従姉妹ペリクティオネは、のちに哲学者プラトンを産む。つまりクリティアスはプラトンの母のいとこにあたり、プラトンの母の兄弟カルミデスとも近しい間柄だった。

三十人政権に関わる図版:Lysander-Sparta
三十人政権Wikimedia Commons Published by Guillaume Rouille(1518?-1589) · Public domain

若いクリティアスは、才能に恵まれた教養人だった。詩を書き、悲劇を書き、散文の著作も残した。断片として伝わる作品には、彼の鋭い知性がのぞく。友人アルキビアデスをたたえる詩では、アルキビアデスという名は詩の韻律に収まらないので別の韻律で詠む、とおどけてみせた。スパルタの国のしくみを書いた著作では、敵国スパルタの質素な暮らしと規律を好意をこめて描いた。神は昔の賢い男が発明したものだ、という有名な一節も伝わっている。法は人目につく悪事は罰せられるが、隠れた悪事までは止められない。そこである賢い者が、すべてを見通す神々の存在を説いて人々を恐れさせた、というのである。この一節は無神論の早い例としてよく引かれるが、作者がクリティアスか、悲劇詩人エウリピデスかについては議論がある。

クリティアスは、アテナイの街角で若者と議論を交わしていたソクラテスのもとに出入りした若者の一人だった。同じくソクラテスと親しかったアルキビアデスと並んで、彼はのちに最も悪名高い「ソクラテスの弟子」とされることになる。ソクラテスの弟子クセノフォンは、師を弁護して、二人はソクラテスの議論の巧みさを学んで政治に生かそうとしただけで、師の生き方に従ったわけではない、と書いている。

ペロポネソス戦争のさなか、クリティアスは政治の嵐に巻き込まれた。紀元前415年、シケリア遠征の出発の直前に、町中のヘルメスの像が一夜にして壊される事件が起きると、彼も疑われて捕らえられたが、仲間の証言で釈放された。紀元前411年に民主政が倒れて寡頭派が一時政権を取った頃にも、彼は政治の場にいた。その後、何らかの理由でアテナイを追われ、北方のテッサリアで暮らした。政敵の言い分によれば、彼はそこで農奴たちに武器を持たせ、主人に逆らわせようとしたという。

シケリア遠征に関わる図版:Destruction of the Athenian army at Syracuse
シケリア遠征Wikimedia Commons John Steeple Davis · Public domain

紀元前404年、アテナイはスパルタに降伏し、長い戦争は終わった。スパルタの将軍リュサンドロスの後ろ盾で、アテナイには民主政に代わって30人の寡頭派による政府が置かれた(三十人政権)。亡命から戻ったクリティアスは、その中心人物になった。三十人政権は、はじめ悪人を取り除くと称して密告者を処罰したが、やがて財産を狙って富裕な市民や在留外国人を次々に殺し、反対する者を粛清した。わずか8か月ほどの間に殺された人々は、1500人にのぼったと伝えられる。クセノフォンは、クリティアスがその中でも最も多く人を殺したがった者だったと書いている。

政権の内側でも対立が起きた。同じ三十人の一人テラメネスは、行き過ぎた殺戮に反対した。クリティアスは、政治に加わる権利を持つ3000人の名簿からテラメネスの名を自分の一存で削り、名簿にない者は裁判なしで処刑できるという規則を使って、彼に死刑を言い渡した。毒の杯を飲み干したテラメネスは、残りの数滴を床に振りまき、これは麗しのクリティアスのために、と言ったとクセノフォンは伝える。

ソクラテスも、無事ではなかった。三十人政権は、サラミス島のレオンという市民を捕らえるよう、ソクラテスを含む5人に命じた。ソクラテスは、ほかの者が出かけるのをよそに、命令を無視して家に帰った。政権がもう少し続いていれば殺されていただろう、と彼は後に法廷で語っている(プラトン『ソクラテスの弁明』)。また、クリティアスたちは、議論の技を教えることを禁じ、30歳より若い者と話すことを禁じた。牛の数を減らしながら悪い牛飼いと呼ばれないと思う牛飼いがいるだろうか、とソクラテスが政権の殺戮を皮肉ったことが、クリティアスの怒りを買ったという。

紀元前403年、亡命した民主派の市民たちが、トラシュブロスに率いられてアテナイの外港ペイライエウスの丘ムニキアを占拠した。三十人の軍はこれを攻めたが敗れ、クリティアスはこの戦いで戦死した。プラトンの叔父カルミデスも、同じ戦いで命を落とした。まもなくアテナイには民主政が戻った。後の時代の注釈によれば、クリティアスたちの墓には、寡頭政が民主政に火を放つ姿が刻まれ、呪われたアテナイの民衆の思い上がりを、わずかの間でも抑えた立派な人々の記念、という言葉が添えられていたという。

クリティアスの死から4年後の紀元前399年、ソクラテスは、神々を信じず若者を堕落させた罪で訴えられ、死刑になった(ソクラテスの死)。告発状には書かれなかったが、民主派の市民たちの胸には、クリティアスやアルキビアデスを育てたのはこの男だ、という思いがあったと考えられている。それから半世紀近く後、アテナイの弁論家アイスキネスは、法廷で、あなたがたは、クリティアスを教育したと見なされた知恵者ソクラテスを死刑にしたのだ、と語っている。

ソクラテスの死に関わる図版:David - The Death of Socrates
ソクラテスの死Wikimedia Commons Jacques-Louis David · Public domain

プラトンは、身内でもあったこの人物を、自分の対話篇に何度も登場させた。節制とは何かを論じる『カルミデス』では、若いカルミデスの後見人として、ソクラテスと議論を交わす。『ティマイオス』と『クリティアス』では、クリティアスがソロンから伝わったという話として、海に沈んだ伝説の島アトランティスの物語を語る。ただし、この二篇のクリティアスが三十人政権の指導者その人か、同名の祖父かについては説が分かれる。

詩人であり、悲劇作家であり、ソクラテスの弟子であり、無神論の言葉を残し、そして多くの市民を殺した独裁者だった。クリティアスは、知性と教養が必ずしも人を善くするとは限らないことを、アテナイの人々に、そしてプラトンに突きつけた人物だった。

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