ジャラーリー暦
概要
マリク・シャーがイスファハーンに天文台を建て、オマル・ハイヤームら8人に暦を作らせた。春分を年の始めに。1年を365.2424日。グレゴリオ暦より正確。ハイヤームは三次方程式を幾何で解き、酒と無常の四行詩を書いた。イランの暦は、いまもこれ。
場所
32.65°N 51.67°E · イラン(サファヴィー朝の都)
関わった人(2)
オマル・ハイヤームAD1048年5月18日–AD1131年12月4日 · 作ったマリク・シャーAD1055年–AD1092年11月19日 · 命じた本文
11世紀のペルシアでは、いくつもの暦が並んで使われていた。宗教の行事はイスラームの太陰暦で数えるが、月の満ち欠けに従うので季節とは毎年11日ほどずれる。税を取り立て、畑の仕事を決めるには、太陽に合った暦が要った。古くからのペルシアの太陽暦は1年を365日とし、閏の日を入れなかった。4年で1日、120年でおよそ1か月ずつ季節から離れていく。春分に祝う新年ノウルーズは、暦の上ではどんどん動いていた。ノウルーズはゾロアスターの教えの時代にさかのぼるとされる古い祭りで、イスラーム化の後も人々は祝い続けていた。祭りの日が季節から外れることは、暮らしの感覚にも合わなかった。
この乱れを正そうとしたのが、セルジューク朝の第3代スルタン、マリク・シャーである。称号をジャラールッディーン(信仰の栄光)といい、ジャラーリーの名はそこから来ている。宰相ニザームルムルクが国を切り盛りした彼の治世は、王朝のいちばん盛んな時代だった。1074年か1075年ごろ、マリク・シャーはイスファハーンに天文台を設け、学者を集めて暦の改革を命じた。

集められた学者は8人だったと伝えられる。その中心にいたのが、のちに詩人として名を残すオマル・ハイヤームである。ニーシャープールに生まれた彼は、このときすでに数学者として名が知られていた。天文台では何年もかけて太陽の動きを測り、1年の長さを詰めていった。
新しい暦は1079年3月、春分の日を元日として始まった。ジャラーリー暦の特徴は、年の初めを計算で決めず、太陽の位置で決めたところにある。太陽が春分点を通るのが正午より前ならその日が元日、正午より後なら翌日が元日になる。こうすると暦は常に太陽とそろう。その代わり、毎年の暦を作るには正確な観測と計算が要った。

閏の入れ方は、後の学者が平均すると33年に8回になるとまとめた。1年の平均の長さは365.2424日ほどになり、実際の太陽年(春分から春分まで約365.2424日)に非常に近い。500年後にヨーロッパで定められるグレゴリオ暦への改暦は、400年に97回の閏を入れて365.2425日としたので、平均だけを比べればジャラーリー暦のほうが太陽に近い。ただ、ジャラーリー暦の閏の規則がハイヤームたちのころどこまで固まっていたかははっきりせず、33年周期は後世の整理だとする見方もある。
天文台の仕事は長く続かなかった。1092年、ニザームルムルクが暗殺され、同じ年にマリク・シャーも急死する。後ろ盾を失った天文台は打ち捨てられ、ハイヤームも宮廷を離れた。それでも暦そのものは使われ続け、ペルシア語の世界で太陽暦の基本になった。
ハイヤームたちの仕事は、イスラーム世界の天文学の流れの中にある。9世紀のバグダードのバグダードの知恵の館から始まった観測と計算の伝統は、のちに13世紀のマラーガ天文台や15世紀のサマルカンドへ受け継がれていく。ハイヤームは天文学のほかに数学でも仕事を残した。『代数学の問題の証明について』で三次方程式を形によって分類し、それぞれを円や放物線や双曲線の交わりを使って幾何学的に解いた。式だけで解く公式がイタリアで見つかるのは16世紀である。フワーリズミーの代数が二次方程式を扱ってから200年あまり、ハイヤームはその先の三次へ進んだことになる。ユークリッドの平行線の公準を他の公準から導こうとした考察も残している。

いまハイヤームの名を世界に知らせているのは、酒と移ろいやすい命をうたう四行詩『ルバイヤート』である。1859年にイギリスのフィッツジェラルドが自由に英訳して評判になった。ただ、彼の名で伝わる詩のうちどれが本人の作かは議論が多く、確かなものはごく一部だと考えられている。
ジャラーリー暦の流れは今も生きている。1925年、イランの議会は春分を元日とする太陽暦を国の暦と定め、月の名にはゾロアスター教の伝統に由来するファルヴァルディーンなどの名を使った。紀元は預言者ムハンマドがメディナへ移った622年に置く。アフガニスタンも同じ系統の暦を使う。ノウルーズは今も、太陽が春分点を通る瞬間を秒まで計算して祝われる。2026年秋は、イランの暦で1405年にあたる。