人物

アルキビアデス

Alcibiades
BC450年 – BC404年(享年46・推定)
アテナイ重要度 4

概要

ペリクレスの養子、ソクラテスの弟子、アテナイで最も美しい男。シケリア遠征を煽り、召還されてスパルタに逃げ、スパルタ王の妻に子を産ませ、ペルシアに逃げ、アテナイに戻って将軍になり、また追われ、フリギアで矢に射られた。『饗宴』で酔って登場する。

所属

アテナイ

関わったできごと(1)

シケリア遠征BC415年 · 煽って逃げた

本文

アルキビアデスは、紀元前450年頃、アテナイの名門に生まれた。紀元前447年、父クレイニアスがボイオティアのコロネイアの戦いで戦死すると、母方の親族にあたるペリクレスが後見人となった。若い彼は、アテナイで最も美しく、最も富み、最も奔放な青年として知られた。rの音をうまく言えない癖があったが、それさえ魅力とされたとプルタルコスは書く。

アルキビアデスの像
アルキビアデスの像Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

彼はソクラテスと親しく交わった。紀元前432年、北ギリシアのポテイダイアの戦いで負傷したアルキビアデスを、ソクラテスが助けた。紀元前424年のデリオンの戦いで敗走したときには、騎兵だったアルキビアデスが、徒歩で退くソクラテスのそばを離れずに守った。プラトンの『饗宴』では、宴の終わりに酔ったアルキビアデスが花冠をかぶって乱入し、ソクラテスこそ自分に恥を感じさせるただ一人の人間だと語る。

紀元前420年、30歳ほどで将軍に選ばれた。スパルタとの和約を結んだニキアスに対抗し、ペロポネソス半島のアルゴスと同盟を結んで、スパルタとの戦いを再び呼び起こした。紀元前416年のオリンピア祭では、7台の戦車を出場させ、1位と2位、さらに4位(3位とする記録もある)を占めた。

紀元前415年、アルキビアデスはシチリア島への大遠征を熱心に説き、ニキアスの反対を押し切って民会を動かした(シケリア遠征)。彼はニキアスらとともに将軍として艦隊を率いることになった。だが出航の直前、ある夜、町じゅうのヘルメス神の像の顔が壊される事件が起きた。さらに、エレウシスの秘儀を私宅でまねて冒涜したという告発がアルキビアデスに向けられた。艦隊が出航したあと、本国は彼を裁判のために呼び戻す船を送った。アルキビアデスは帰る途中、南イタリアのトゥリオイで姿を消し、敵国スパルタへ逃げた。

シケリア遠征に関わる図版:Destruction of the Athenian army at Syracuse
シケリア遠征Wikimedia Commons John Steeple Davis · Public domain

スパルタで、彼はアテナイの弱点を語った。シチリアの都市シュラクサイに援軍の将を送ること、アテナイ近郊のデケレイアに砦を築いて常に圧力をかけること。どちらも実行され、アテナイの遠征軍は壊滅し、アテナイ自身も追い詰められた。アルキビアデスは髪を伸ばし、冷水を浴び、黒いスープをすすって、スパルタ人以上にスパルタ人らしく暮らしたという。だが王アギスの妃ティマイアとの間に子をもうけたとされ、王の怒りを買った。

紀元前412年、彼は小アジアのペルシアの総督ティッサフェルネスのもとへ移り、今度はペルシアの豪奢な暮らしになじんだ。ペルシアの資金を動かせるかのように振る舞って、アテナイの側に近づいた。紀元前411年、アテナイで寡頭派の政変が起きると、サモス島にいたアテナイ艦隊の兵士たちはこれに反発し、アルキビアデスを将軍に迎えた。

快楽の抱擁からアルキビアデスを引き離すソクラテス(レニョー画、1791年、ルーヴル美術館)
快楽の抱擁からアルキビアデスを引き離すソクラテス(レニョー画、1791年、ルーヴル美術館)Wikimedia Commons Jean-Baptiste Regnault · Public domain

それから数年、彼はヘレスポントス周辺で勝ち続けた。紀元前410年のキュジコスの戦いでは、スパルタの艦隊を壊滅させた。紀元前407年、アルキビアデスは英雄としてアテナイに帰り、全軍の総司令官に任じられた。スパルタ軍がデケレイアにいるため長年海路で行われていたエレウシスの秘儀の行列を、兵に守らせて陸路で行わせ、かつて冒涜を責められた汚名を晴らした。

だが翌紀元前406年、彼が艦隊を離れていたあいだに、副官がノティオンの沖で命令に背いてリュサンドロスに戦いを挑み、敗れた。責任を問われたアルキビアデスは再び失脚し、トラキアの自分の砦に退いた。紀元前405年、アイゴスポタモイの浜に陣取ったアテナイの将軍たちに、彼は馬で乗りつけて陣の位置の危うさを忠告したが、聞き入れられなかった。数日後、アテナイ艦隊は壊滅した(アイゴスポタモイの海戦)。

アテナイが降伏すると、アルキビアデスは小アジアのフリュギアへ逃れ、ペルシアの総督ファルナバゾスに身を寄せた。紀元前404年頃、彼のいた家が夜に囲まれて火を放たれた。剣を手に飛び出した彼は、遠巻きの敵から矢と投げ槍を浴びて死んだ。スパルタのリュサンドロスか、アテナイの三十人政権の意向だったとされる。そばにいた女性ティマンドラが遺体を葬ったという。46歳前後だった。

三十人政権に関わる図版:Lysander-Sparta
三十人政権Wikimedia Commons Published by Guillaume Rouille(1518?-1589) · Public domain

プルタルコスは、行く先々の色に染まる彼をカメレオンにたとえた。アリストファネスの喜劇『蛙』では、アテナイがこの男をどう扱うべきかと問われた詩人アイスキュロスが、町の中で獅子の子を育ててはならない、育てたならその流儀に従うしかない、と答える。アテナイは彼なしではいられず、彼とともにもいられなかった。

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