科挙の始まり
概要
それまで官吏は、家柄と推薦で選ばれた。九品官人法の下で、有力な家が官職を世襲した。隋の文帝が推薦制を廃し、煬帝が進士科を置いた。試験の成績で選ぶ。唐で制度が整い、宋で決定的になった。宋代には、答案から名前を隠し(糊名)、筆跡で分からないよう書記が写し直した(謄録)。合格率は数千分の一。試験は3日3晩、独房のような号舎に籠って行われた。家柄でなく試験で人を選ぶという考え方は、ここから世界へ広がった。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
本文
漢の時代、役人は郷挙里選という推薦の仕組みで選ばれていた。地方の長官が、土地の評判のよい人物を中央へ推薦する。三国時代の220年、魏では陳羣の献策によって九品官人法が定められた。各地に中正官という役を置き、人物を九つの等級に評価して、その等級に応じた官職を与える仕組みである。
建前は人物本位だったが、実際に評価する中正官もまた有力な家の出だった。評価は家柄で決まるようになり、「上品に寒門なく、下品に勢族なし」と言われた。上の等級に貧しい家の者はおらず、下の等級に有力な家の者はいない。南北朝の数百年のあいだ、門閥の貴族が官職を事実上世襲し、王朝が変わっても、その地位は揺るがなかった。

581年、北周の外戚だった楊堅が帝位を奪って隋を建て、589年には南朝の陳を滅ぼして、三百年近く分かれていた中国を再び一つにした(隋の中国再統一)。文帝となった楊堅が直面したのは、地方に根を張る貴族の力をどう抑えるかという問題だった。彼は九品官人法を廃止し、各州から毎年人材を選んで中央に送らせた。続く煬帝のとき、詩文の才を試す進士科が置かれたとされ、これが科挙の始まりとされる。始まりの年は、587年、598年、605年など諸説がある。科挙の科は科目、挙は人を選んで挙げることを意味する。
唐の時代に制度は整えられた(唐の成立)。経書の暗記を問う明経、詩や賦を作らせ時事の政策を論じさせる進士、法律や算術、書の科目などが置かれ、なかでも難しく、もっとも尊ばれたのが進士だった。三十歳で明経に受かれば遅いが、五十歳で進士に受かれば若い、という言葉があったほどである。進士の合格者は一回にせいぜい二、三十人だった。ただ、唐の科挙には限界があった。受験の前に有力者に自作の詩文を届けて目をかけてもらう慣行があり、人脈がものをいった。合格してもすぐ官職に就けるわけではなく、さらに容貌や言葉遣いまで見る任用の試験があった。高い官職の多くは、なお貴族の家の出身者が占めていた。

決定的に変わったのは宋の時代である(宋の科挙と士大夫)。まず合格者の数が大きく増えた。唐のおよそ三百年で進士に合格した者が数千人だったのに対し、宋の三百年あまりでは四万人を超えたとされる。973年には、太祖が最終の試験を皇帝自らが宮中で行う殿試を始めた。それまで合格者は、自分を選んだ試験官を師と仰ぎ、師弟の関係から派閥ができていた。殿試によって、合格者は皇帝その人の門下生となった。
公正さを守る工夫も重ねられた。十世紀の末からは、答案の名前の部分を糊で封じて誰の答案か分からないようにする糊名が行われ、十一世紀の初めには、書記がすべての答案を書き写して、筆跡からも誰の答案か分からないようにする謄録が始まった。写し間違いを防ぐための照合も含め、膨大な手間がかかったが、それでも公正のために続けられた。宋は武人の力を抑え、官僚を文人で固めた。本の中に黄金の家があり、玉のような美人がいる、と学問を勧める詩は、宋の皇帝の作として後世に広く伝えられた。学問を積めば、すべてが手に入る。

試験の場の様子は、後の明や清の時代の記録に詳しい。貢院と呼ばれる試験場には、号舎という小さな仕切り部屋がずらりと並んでいた。幅一メートルあまり、奥行きもそれほどしかない部屋に板が二枚渡してあり、上の板が机、下の板が椅子になる。夜は二枚を並べて寝床にするが、足は伸ばせない。受験者はここに筆と墨と硯、食料を持ち込み、三日ほど籠って答案を書いた。省の段階の試験では、これを三度繰り返した。入場のときには不正を防ぐために髪をほどかせ、衣服を調べ、持参した饅頭まで割って調べた。それでも、経書の全文を細かな字で書き込んだ下着が、いまも博物館に残っている。南京の江南貢院には二万を超える号舎があった。1463年には北京の試験場で火事が起き、閉じ込められた受験者が多数焼け死んだ記録もある。
競争は苛烈だった。清の時代、地方の予備試験に合格して生員になるだけでも狭き門で、三年に一度の省の試験の合格率は一、二パーセントほど、最後に進士にたどり着くのは、最初の受験者の数千人に一人ともいわれた。進士の合格の年齢は平均して三十代の半ばで、六十代、七十代で合格した人もいた。清の乾隆帝の時代には百歳を超える受験者がいて、皇帝が特別に称号を与えたという。
大多数の人は落ち続けた。広東の農家に生まれた洪秀全は、省の試験に何度も落ち、その挫折の中で見た幻をキリスト教の教えと結びつけて、のちに太平天国の乱を起こした。蒲松齢は十九歳で生員になった後、七十歳を過ぎるまで省の試験に受からず、そのあいだに狐や幽霊の物語を集めた『聊斎志異』を書いた。呉敬梓の小説『儒林外史』には、五十代になってようやく合格の知らせを受けた男が、喜びのあまり正気を失う場面が描かれている。

科挙は周りの国々にも移植された。朝鮮半島では958年、高麗の光宗がこれを導入し(高麗の科挙)、朝鮮王朝では両班の身分と結びついて社会の中心に据えられた。ベトナムでは十一世紀に李朝が試験を始め、ハノイの文廟には歴代の合格者の名を刻んだ石碑が八十基あまり残っている。日本でも古代に試験の制度は作られたが、有力な氏族の力が強く、根づかなかった。この違いは、日本と中国・朝鮮の社会の違いの一因として、しばしば論じられる。
ヨーロッパには、十六世紀以降、中国に渡ったイエズス会の宣教師たちが、この官吏登用の制度を伝えた。十八世紀の啓蒙思想家ヴォルテールは、中国の統治を理想として称えた。イギリスでは十九世紀の初めから東インド会社が社員の選抜に試験を取り入れ、1855年にはインドの高級官僚の採用に公開の競争試験が導入され、1870年には本国の官吏にも広がった。アメリカでは、選挙に勝った政党が支持者に官職を配る慣行が続いていたが、1881年に官職を求めて断られた男がガーフィールド大統領を暗殺した事件をきっかけに、1883年、試験による連邦公務員の採用を定める法律ができた。中国の制度がどこまで直接の手本になったかには議論があるが、家柄ではなく試験で人を選ぶという考え方が、東から西へ伝わったことは確かである。

1905年9月、清朝は科挙の廃止を決めた。西洋の学問を教える学校を広めなければならないのに、科挙が続くかぎり誰も新しい学校へ行かない、というのが理由だった。千三百年続いた制度の終わりは、地方の読書人たちから、社会の中での居場所を奪った。その一部は革命の側に流れ、六年後に清朝は倒れる。科挙の廃止が王朝の崩壊を早めたという見方もある。
試験で人を選ぶという考え方は、いまや世界中にある。公務員の試験、大学の入試、さまざまな資格の試験。そして、それらが抱える悩みも千三百年前とほとんど変わらない。出題の中身が実際の仕事と離れていくこと、準備に金と時間をかけられる家の子が有利になること、試験のための産業が生まれること、そして落ちた人々の人生をどうするか、という問いである。