できごと

浮浪を罰する

Ordinance of Labourers 1349
AD1349年
重要度 4
キプチャク汗国リャザン公国マムルーク朝ノヴゴロド公国サーミノルウェー神聖ローマ帝国ハフス朝ポーランド王国フランス王国リトアニア大公国English territoryセルジューク朝スウェーデンカスティーリャ王国ハンガリー王国モロッコTeutonic Knights東ローマ帝国アラゴン王国ブルガール可汗国デンマークシチリア王国ポルトガルRaškaスコットランドオスマン帝国ヴェネツィア共和国AD1349年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1349年の版図を描いています(28勢力)。

概要

黒死病で人が減り、労働力が不足した。賃金が上がりそうになる。イングランドは労働者勅令を出し、疫病前の賃金を超えて払うことも受け取ることも禁じ、健康な者が働かずに施しを受けることを罪とした。以後、浮浪はたびたび厳罰化される。1547年の法は、三日以上働かない者を二年間の奴隷とし、胸にVの烙印を押すと定めた。過酷すぎて二年で廃止されている。移動する貧しい者を罰する法は、その後も形を変えて長く残った。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

1348年、黒死病がイングランドに上陸した。1350年ごろまでに、人口の3分の1から半分が死んだと推定されている。畑を耕す手が一気に足りなくなった。生き残った農民は、より良い条件を求めて動き始める。隣の荘園なら倍の賃金を出すという話を聞けば、そちらへ移る。領主たちは慌てた。働き手を引き留めるには賃金を上げるしかないが、それでは領主の取り分が減る。

1349年6月、国王エドワード3世は労働者勅令を出し、1351年には議会がそれを労働者法として改めて定めた。中身は次のようなものだった。60歳未満で、体が丈夫で、自分の土地を持たない者は、求められれば働かなければならない。賃金は疫病の前の水準を超えてはならず、それより多く払った雇い主も罰せられる。雇い主の許しなく持ち場を離れてはならない。そして、働ける体を持つ物乞いに施しを与えてはならない。施しがあれば彼らが働かなくなるから、というのが理由だった。ここで、働けるのに働かない者という区分が、はじめて法に書き込まれた。

法は守られなかった。違反を問う訴えは大量に起こされ、14世紀の後半には各地の裁判の記録にこの法の違反がたびたび現れるが、賃金はそれでも上がった。人手の足りなさは、法の命令より強かった。押さえつけられた不満は積み重なり、1381年、人頭税をきっかけにワット・タイラーの乱が起きる。反乱は鎮められたが、この頃から農奴の身分は少しずつ崩れていった。

ワット・タイラーの乱に関わる図版:Jean Froissart, Chroniques, 154v, 12148 btv1b8438605hf336, crop
ワット・タイラーの乱Wikimedia Commons Jean Froissart · Public domain

働かない貧しい者、とりわけ土地を離れて移り歩く者を罰する法は、その後もたびたび作られた。15世紀から16世紀にかけて、羊を飼うために畑を囲い込む動きが進むと、土地を追われた人が増え、町や街道を流れ歩く者の姿が目立つようになった。修道院の解散で、貧しい者に施しをしていた場所も失われた。権力の側は、こうした人々を治安を乱す者と見た。鞭で打つ、耳に穴をあける、生まれた教区へ送り返す、といった罰が定められていった。

なかでも最も過酷だったのが、1547年、少年王エドワード6世のもとで作られた浮浪者法である。仕事をせずに3日間ぶらぶらしていた者は、告発した者の奴隷にされる。期間は2年で、胸にはVの字の焼き印を押す。浮浪者を意味する語の頭文字である。逃げれば終身の奴隷とされ、額か頬に奴隷を意味するSの字を焼き付ける。もう一度逃げれば死刑。浮浪者の子どもは取り上げて徒弟として働かせてよい、とも定められていた。

この法は1550年に廃止された。あまりに過酷で、実際にはほとんど使われなかったと考えられている。治安判事は適用をためらい、土地の人々も隣人を奴隷にするために告発しようとはしなかった。それでも、こうした条文が実際に議会を通ったことは記録に残っている。

16世紀の終わりには、貧しい者を区別して扱う仕組みが形を取った。1601年のエリザベス救貧法は、教区ごとに貧民を救う責任を負わせ、財源として救貧税を集めさせた。老人や病人、体の不自由な人や孤児のように働けない者は救う。働ける者には仕事を与える。働こうとしない者は懲治院に送る。働けるのに働かない者を罰するという労働者法以来の考えは、救済の仕組みの中に組み込まれて生き続けた。

1662年の定住法は、その教区に属さない貧しい者が救済の世話になりそうなら、元の教区へ送り返してよいと定めた。貧しい者が仕事を求めて移る自由は、大きく縛られた。アダム・スミスは『国富論』で、貧しい者が教区の境を越えることさえ難しいこの仕組みを厳しく批判している。

19世紀に入ると、1824年の浮浪者法が、屋外で寝ることや物乞いをすることを罪と定めた。ナポレオン戦争のあと、職を失った元兵士が街にあふれていた時期である。1834年の新救貧法は、救済を受ける者の暮らしは、最も貧しい働き手の暮らしより良くてはならない、という原則を掲げ、救済を求める者をワークハウス(救貧院)に収容した。家族は男と女と子どもに分けられ、制服を着せられ、麻くずをほぐしたり骨を砕いたりといった単調な仕事をさせられた。ディケンズはディケンズ『オリヴァー・トゥイスト』で、このワークハウスの暮らしを描いている。

1824年の浮浪者法は、驚くほど長く生き延びた。路上で寝ることを罪とするこの法は、イングランドとウェールズで21世紀まで効力を持ち続けた。2022年、ようやく廃止が法律で決まったが、代わりの仕組みをめぐって施行は先送りされた。屋外で寝ることを罪とすべきかどうかの議論は、200年続いたことになる。

同じ系譜は、ほかの国にも現れた。南北戦争のあとのアメリカ南部では、多くの州が浮浪を罰する法を作り、奴隷の身分から解放されたばかりの黒人を狙い撃ちにした。職に就いていることを証明できなければ逮捕し、罰金を払えなければ、囚人として農園や鉱山に貸し出す。この囚人貸出の仕組みは、形を変えた奴隷制の再来だったと論じられている。

現代の都市にも、この問いは残っている。横になれないように仕切りを付けたベンチや、軒下の地面に並べた突起は、路上で眠る人を遠ざけるための作りである。公共の場所での野宿を条例で禁じる都市も多い。2024年、アメリカの連邦最高裁は、野宿を罰するオレゴン州の町の条例について、残酷で異常な刑罰を禁じた憲法に反しないと判断した。判事の意見は6対3に割れた。屋外で寝ることは罪なのか、それとも行き場が無いことの結果なのか。黒死病のあとの労働者勅令から670年あまり、同じ問いがいまも続いている。

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