← 地図で見る
Event / できごと

パリの地下納骨堂

The Catacombs of Paris
AD1786年
重要度 4
グアンチェGenevaMilano (Austria)オーストリア帝国サルデーニャ王国ゼーフェン・ゼンデン共和国スイス誓約者同盟BadenWürttembergスウェーデンロンバルディアデンマーク=ノルウェールクセンブルクイギリススペインオーストリア領ネーデルラント両シチリア王国HohenzollernWaldeckLippe-DetmoldBrunswickAnhaltLübeckOldenburgハノーファーBremenCuxhavenHolsteinHamburgSchaumburg-LippeプロイセンAlgiersTunisTripolitaniaCyrenaicaNejdモロッコパルマ教皇領PontremoliFivizzanoルッカトスカーナモデナMassaAirMecklenburg-StrelitzバイエルンMecklenburg-SchwerinThuringiaザクセンペルシア中央アジアの諸ハン国ポーランドアイルランド王国ヴェネツィア共和国ネーデルラント連邦共和国ポーランド・リトアニア共和国スペイン帝国フランス王国ポルトガル帝国オスマン帝国大英帝国ロシア帝国神聖ローマ帝国AD1786年パリ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1786年の版図を描いています(65勢力)

概要

サンティノサン墓地は、1000年近く使われ、200万体が埋まっていた。地面が数メートル盛り上がり、隣家の地下室の壁が腐乱した死体の重みで破れる事件が起きた。1780年、閉鎖。市は、石灰岩を掘り出した後の地下坑道へ、遺骨を移すことにした。夜、松明を掲げた行列が、荷車で骨を運んだ。移送は数十年続き、600万体分が納められた。骨は種類ごとに積み上げられ、壁として整えられた。入口に「止まれ、ここは死の帝国である」と刻まれている。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

本文

**サンティノサン墓地**。

パリ中心部、レ・アール(中央市場)のすぐ隣。

**1000年近く**、使われた。

**構造**。

中世のパリの墓地は、いまの墓地とは、まったく違う。

- **個人の墓は、ない**(裕福な者を除く)。 - 巨大な**共同の穴**を掘り、遺体を投げ入れる。満杯になれば、土をかけ、隣に次の穴を掘る。 - 数年後、その穴を掘り返し、**骨を取り出して**、周囲の回廊(**シャルニエ**、納骨堂)に積む。 - 空いた穴を、また使う。

**つまり、同じ土地を、何度も使い回す**。

(土地が足りない。そして、教会の隣に埋葬されることが、宗教的に重要だった。中心部から離れられない。)

**規模**。

推定で、**200万体**が、この墓地に埋められた。

面積——約7000平方メートル(サッカー場一面ほど)。

**帰結**。

**地面が、盛り上がった**。

(数百年の間に、周囲の道より**2〜3メートル**高くなった。骨と、腐敗した有機物が、積み上がった。)

そして——**臭った**。

(近隣の記録に、繰り返し苦情が現れる。牛乳が腐る。ワインが変質する。地下室に置いた食品が食べられない。)

**1780年**。

**事故が起きた**。

墓地に隣接する建物の、**地下室の壁が、崩れた**。

(大雨の後。積み上がった墓地の重みと、水を含んだ土の圧力で、地下室の壁が破れ、**腐乱した遺体が、地下室に流れ込んだ**。)

(この事件の詳細については、当時の記録に幅がある。しかし、これが決定的な引き金になったことは確かである。)

同年、**サンティノサン墓地は、閉鎖された**。

(それ以前、1763年に既に、パリ高等法院が市内の墓地の禁止を命じていた。実行されていなかった。)

**移送先**。

パリの地下には、**巨大な空洞**があった。

**採石場**である。

(パリは、**石灰岩**の上に建っている。ノートルダム、ルーヴル、そして市中の建物は、**足元の石**で建てられた。

何世紀もの採掘の結果、市の南部の地下に、**総延長300km**に及ぶ坑道が広がっていた。

そして、1774年、**地面が陥没した**。ダンフェール街で、道が地下へ落ちた。

1777年、ルイ16世が**採石場監督局**を設置し、坑道の調査と補強を始めた。責任者は**シャルル=アクセル・ギヨモ**。)

**この、既にある空洞に、骨を移す**。

**移送**。

**1786年4月7日**、開始。

方法。

- **夜間に行う**(昼間は、市民の感情を刺激する)。 - 墓地から骨を掘り出し、**黒い布で覆った荷車**に積む。 - **松明を持った司祭の行列**が、それに従う。 - 詩篇を唱えながら、市の南、ダンフェールの入口まで運ぶ。 - 井戸のような縦坑から、骨を**落とす**。

**移送は、数十年続いた**。

(サンティノサンだけでなく、市内の他の墓地からも。1859年まで、断続的に続いた。)

**総数——推定600万から700万体**。

(現在のパリ市の人口の、約3倍である。)

**整理**。

当初、骨は**ただ積み上げられていた**だけだった。

**1810年**、採石場監督局の**ルイ=エティエンヌ・エリカール・ド・テュリ**が、これを整理した。

彼がしたこと。

- **骨を、種類ごとに分ける**。大腿骨、脛骨、そして頭蓋骨。 - それを、**壁として積み上げる**。大腿骨を横向きに並べ、その間に頭蓋骨を配置して、模様を作る。 - 十字、心臓、そして幾何学的な列。 - **石碑と、銘文**を置く。詩、聖書の句、そして古典からの引用。 - そして、**どの墓地から、いつ運ばれたか**を記した標識。

つまり、彼は、これを**見せる場所**にした。

(1809年から、一般公開が始まった。当初は許可制。)

**入口の銘**。

「**Arrête ! C'est ici l'empire de la mort**」

(**止まれ。ここは、死の帝国である**。)

**その他の銘**。

「**彼らはどこにいるのか。かつて我々の中を歩いていた者たちは**」

「**汝が今あるところに、我はかつてあった。我が今あるところに、汝はやがて至る**」

(これは、ラテン語の墓碑銘の定型である。**メメント・モリ**の系譜。)

**そこにいる人々**。

移された骨の中には、名の知られた人々のものが含まれている(ただし、**個人としては特定できない**。全部が混ざっている)。

- ラブレー - ラ・フォンテーヌの初期の埋葬地から - **ロベスピエール**、**ダントン**、**サン=ジュスト**(革命期の処刑者の墓地から移された) - そして、革命期に処刑された数千人。

(つまり、革命で殺し合った者たちの骨が、いま、同じ壁に積まれている。)

**その後**。

パリの地下は、以後、様々に使われた。

- **キノコの栽培**(19世紀。「パリのシャンピニオン」)。 - **第二次大戦**——**レジスタンス**の拠点。同時に、**ドイツ軍**も、リュクサンブール公園の下に地下壕を作った。(両者は、数百メートルしか離れていない場所にいた。) - そして、**カタフィル**——地下の坑道を、無許可で探検する人々。(現在も、専門の警察部隊〈通称カタフリック〉が、取り締まっている。

2004年、地下の坑道で、**完全に整備された映画館**が発見された。座席、スクリーン、電源、そしてバー。誰が作ったかは、いまも分かっていない。)

**そして**。

パリの、市内に住むことを禁じられた死者は、郊外の三つの墓地へ移された。

**ペール・ラシェーズ**、**モンパルナス**、**モンマルトル**。

そこで、まったく違う考え方の墓地が、生まれることになる。

同じ時代のできごと

アユタヤの陥落AD1767年クックの太平洋航海1768年ワットの蒸気機関AD1769年じゃがいものヨーロッパ普及AD1770年頃西山の乱1771年ポーランド分割1772年田沼時代AD1772年(安永元年)清の文字の獄AD1772年
AD1786年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります