概要
サンティノサン墓地は、1000年近く使われ、200万体が埋まっていた。地面が数メートル盛り上がり、隣家の地下室の壁が腐乱した死体の重みで破れる事件が起きた。1780年、閉鎖。市は、石灰岩を掘り出した後の地下坑道へ、遺骨を移すことにした。夜、松明を掲げた行列が、荷車で骨を運んだ。移送は数十年続き、600万体分が納められた。骨は種類ごとに積み上げられ、壁として整えられた。入口に「止まれ、ここは死の帝国である」と刻まれている。
場所
48.86°N 2.35°E · フランス
本文
**サンティノサン墓地**。
パリ中心部、レ・アール(中央市場)のすぐ隣。
**1000年近く**、使われた。
**構造**。
中世のパリの墓地は、いまの墓地とは、まったく違う。
- **個人の墓は、ない**(裕福な者を除く)。 - 巨大な**共同の穴**を掘り、遺体を投げ入れる。満杯になれば、土をかけ、隣に次の穴を掘る。 - 数年後、その穴を掘り返し、**骨を取り出して**、周囲の回廊(**シャルニエ**、納骨堂)に積む。 - 空いた穴を、また使う。
**つまり、同じ土地を、何度も使い回す**。
(土地が足りない。そして、教会の隣に埋葬されることが、宗教的に重要だった。中心部から離れられない。)
**規模**。
推定で、**200万体**が、この墓地に埋められた。
面積——約7000平方メートル(サッカー場一面ほど)。
**帰結**。
**地面が、盛り上がった**。
(数百年の間に、周囲の道より**2〜3メートル**高くなった。骨と、腐敗した有機物が、積み上がった。)
そして——**臭った**。
(近隣の記録に、繰り返し苦情が現れる。牛乳が腐る。ワインが変質する。地下室に置いた食品が食べられない。)
**1780年**。
**事故が起きた**。
墓地に隣接する建物の、**地下室の壁が、崩れた**。
(大雨の後。積み上がった墓地の重みと、水を含んだ土の圧力で、地下室の壁が破れ、**腐乱した遺体が、地下室に流れ込んだ**。)
(この事件の詳細については、当時の記録に幅がある。しかし、これが決定的な引き金になったことは確かである。)
同年、**サンティノサン墓地は、閉鎖された**。
(それ以前、1763年に既に、パリ高等法院が市内の墓地の禁止を命じていた。実行されていなかった。)
**移送先**。
パリの地下には、**巨大な空洞**があった。
**採石場**である。
(パリは、**石灰岩**の上に建っている。ノートルダム、ルーヴル、そして市中の建物は、**足元の石**で建てられた。
何世紀もの採掘の結果、市の南部の地下に、**総延長300km**に及ぶ坑道が広がっていた。
そして、1774年、**地面が陥没した**。ダンフェール街で、道が地下へ落ちた。
1777年、ルイ16世が**採石場監督局**を設置し、坑道の調査と補強を始めた。責任者は**シャルル=アクセル・ギヨモ**。)
**この、既にある空洞に、骨を移す**。
**移送**。
**1786年4月7日**、開始。
方法。
- **夜間に行う**(昼間は、市民の感情を刺激する)。 - 墓地から骨を掘り出し、**黒い布で覆った荷車**に積む。 - **松明を持った司祭の行列**が、それに従う。 - 詩篇を唱えながら、市の南、ダンフェールの入口まで運ぶ。 - 井戸のような縦坑から、骨を**落とす**。
**移送は、数十年続いた**。
(サンティノサンだけでなく、市内の他の墓地からも。1859年まで、断続的に続いた。)
**総数——推定600万から700万体**。
(現在のパリ市の人口の、約3倍である。)
**整理**。
当初、骨は**ただ積み上げられていた**だけだった。
**1810年**、採石場監督局の**ルイ=エティエンヌ・エリカール・ド・テュリ**が、これを整理した。
彼がしたこと。
- **骨を、種類ごとに分ける**。大腿骨、脛骨、そして頭蓋骨。 - それを、**壁として積み上げる**。大腿骨を横向きに並べ、その間に頭蓋骨を配置して、模様を作る。 - 十字、心臓、そして幾何学的な列。 - **石碑と、銘文**を置く。詩、聖書の句、そして古典からの引用。 - そして、**どの墓地から、いつ運ばれたか**を記した標識。
つまり、彼は、これを**見せる場所**にした。
(1809年から、一般公開が始まった。当初は許可制。)
**入口の銘**。
「**Arrête ! C'est ici l'empire de la mort**」
(**止まれ。ここは、死の帝国である**。)
**その他の銘**。
「**彼らはどこにいるのか。かつて我々の中を歩いていた者たちは**」
「**汝が今あるところに、我はかつてあった。我が今あるところに、汝はやがて至る**」
(これは、ラテン語の墓碑銘の定型である。**メメント・モリ**の系譜。)
**そこにいる人々**。
移された骨の中には、名の知られた人々のものが含まれている(ただし、**個人としては特定できない**。全部が混ざっている)。
- ラブレー - ラ・フォンテーヌの初期の埋葬地から - **ロベスピエール**、**ダントン**、**サン=ジュスト**(革命期の処刑者の墓地から移された) - そして、革命期に処刑された数千人。
(つまり、革命で殺し合った者たちの骨が、いま、同じ壁に積まれている。)
**その後**。
パリの地下は、以後、様々に使われた。
- **キノコの栽培**(19世紀。「パリのシャンピニオン」)。 - **第二次大戦**——**レジスタンス**の拠点。同時に、**ドイツ軍**も、リュクサンブール公園の下に地下壕を作った。(両者は、数百メートルしか離れていない場所にいた。) - そして、**カタフィル**——地下の坑道を、無許可で探検する人々。(現在も、専門の警察部隊〈通称カタフリック〉が、取り締まっている。
2004年、地下の坑道で、**完全に整備された映画館**が発見された。座席、スクリーン、電源、そしてバー。誰が作ったかは、いまも分かっていない。)
**そして**。
パリの、市内に住むことを禁じられた死者は、郊外の三つの墓地へ移された。
**ペール・ラシェーズ**、**モンパルナス**、**モンマルトル**。
そこで、まったく違う考え方の墓地が、生まれることになる。