できごと

ミリンダ王の問い

Questions of Milinda
BC150年頃
年に諸説あり重要度 4
ミリンダ王の問いに関わる図版:Folios of the Bhikkhuni-patimokkha (BL IO Man.Pali 21)
Folios of the Bhikkhuni-patimokkha (BL IO Man.Pali 21) Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · CC0

概要

インド・グリーク朝の王メナンドロスが、僧ナーガセーナに問うた。「自我はあるか」。「車は、輪か、軸か、車体か。どれでもない。名前だけ」。ギリシアの王とインドの僧の対話。パーリ語で残った。プルタルコスは王の遺骨を都市が分け合ったと書いた。

場所

サーガラ(シアールコート)
32.49°N 74.54°E · パキスタン

関わった人(1)

メナンドロス1世?–BC130年頃 · 問うた

本文

紀元前2世紀の北西インドには、ギリシア人の王が治める国があった。アレクサンドロスの東方遠征のあと、中央アジアのバクトリアに残ったギリシア人の植民者たちは独立の王国を作り、やがてヒンドゥークシュを越えてインダス川の流域へ降りてきた。その王たちのうち、もっとも名を残したのがメナンドロス1世である。インドの言葉では「ミリンダ」と呼ばれた。都はパンジャーブのサーガラ、いまのパキスタンのシアールコートにあたるとされる。

インドの側から見れば、ギリシア人は「ヨーナ」、すなわちイオニア人であった。言葉も神々も違う異国の王が、仏教の盛んな土地を治めることになった。アショーカ王の碑文の時代から100年ほどがたち、北西インドには多くの僧院が建っていた。その土地で、ギリシアの王と仏教の僧とが向き合って議論をした、という書物が残っている。それが『ミリンダ王の問い』である。

ミリンダ王とナーガセーナ
ミリンダ王とナーガセーナWikimedia Commons Horace van Ruith · Public domain

書物によれば、王は議論を好み、名のある修行者や学者を次々に問い詰めたが、満足に答えられる者はいなかった。そこへ現れたのが若い僧ナーガセーナである。バラモンの家に生まれ、仏教の教えを学んで悟りを得た人物として描かれる。王は500人のギリシア人の家臣を連れて、ナーガセーナのいる僧院を訪ねた。

最初の問答がよく知られている。王が名を尋ねると、ナーガセーナは「ナーガセーナと呼ばれているが、それは呼び名にすぎず、そこに人というものは見いだされない」と答えた。王はすかさず切り返す。人がいないのなら、施しを受けるのは誰か、戒を守るのは誰か、罪を犯すのは誰か。髪がナーガセーナか、爪か、歯か、皮膚か、骨か。体と心を作るさまざまな要素の一つ一つか、それらを全部合わせたものか、それらの外にあるものか。どれも違うと言うなら、ナーガセーナなど存在しない、あなたは嘘を言った、と。

メナンドロス1世の銀貨。ギリシャ語で「救世主王メナンドロスの」と刻まれている(大英博物館)
メナンドロス1世Wikimedia Commons No machine-readable author provided. World Imaging assumed (based on copyright claims). · Public domain

ナーガセーナは問い返した。王はここへ歩いて来たのか、車で来たのか。車で来た、と王は答える。では車とは何か。轅(ながえ)か、車軸か、車輪か、車体か。どれも車ではない。それらを全部合わせたものでもなく、それらの外にあるものでもない。それなら車など無いことになるが、王は嘘を言ったのか。王は、轅や車軸や車輪があるのに依って「車」という呼び名が成り立つのだ、と認める。ナーガセーナは、まさにそのとおりで、髪や爪や体と心の要素があるのに依って「ナーガセーナ」という呼び名が成り立つ、と答えた。変わらない実体としての自己は無く、要素の集まりに名前が付いているだけだ、という仏教の「無我」の考えを、日常の物で説いた場面である。

問答はさらに続く。死んで生まれ変わるのは同じ者か、別の者か、という問いには、灯火の喩えが使われる。夜の初めに灯した火と、夜中の火と、明け方の火は同じ火か。同じではないが、別の火でもない。一つの灯火に依って一晩じゅう燃えている。乳が凝乳になり、バターになるのも同じで、同じものでもなく別のものでもない。涅槃は本当にあるのかと問われると、ナーガセーナは、風はあるかと問い返す。風は形も色も示せないが、あることは誰も疑わない。王は、問いを重ねるごとに納得していく。

アレクサンドロス大王の古代インド遠征の地図
アレクサンドロス大王の古代インド遠征の地図Wikimedia Commons No machine-readable author provided. World Imaging assumed (based on copyright claims). · Public domain

この書物はパーリ語で上座部仏教に伝わり、スリランカや東南アジアで読まれてきた。漢訳もあり、『那先比丘経』と呼ばれる。漢訳はパーリ語版よりずっと短く、パーリ語版の前半に当たる部分しか持たない。そのため、もとになった問答の記録に、後の時代の人々が問答を書き足して大きくしていったと考えられている。いつ、どこで、誰がまとめたのかは分かっていない。対話がそのとおりに行われたのかも確かめようがない。上座部の多くの国では正式な経典の外に置かれるが、ミャンマーでは経典の一部として扱われている。

王が本当に仏教徒になったのかについても、意見は分かれる。パーリ語版の結末では、王は国を息子に譲って出家し、聖者の位に達したとされるが、これは後の付け足しと見る人が多い。手がかりとして挙げられるのが、王の発行した硬貨と、ギリシア人の伝記作家プルタルコスの記述である。メナンドロスの硬貨の中には、仏教の象徴である法輪を刻んだものがあると言われる。プルタルコスは、メナンドロスが陣中で死ぬと、支配下の諸都市が遺骨を奪い合い、分け合ってそれぞれに記念の塔を建てた、と書いている。これは釈迦の遺骨が八つに分けられて塔に納められたという伝えとよく似ている。

ギリシアの側には、問いを重ねて相手の考えを確かめていく対話の伝統があった。インドの側には、喩えを使って教えを説く伝統があった。『ミリンダ王の問い』は、その二つが出会ったところで生まれた書物として読まれてきた。北西インドではこのあと、ギリシア風の彫刻の技術が仏教と結びつき、ガンダーラの仏像が生まれる。日本では中村元と早島鏡正の現代語訳が1963年から平凡社の東洋文庫で出て、仏教の入門書として長く読まれている。

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