人物

クレイステネス

Cleisthenes
BC570年頃 – BC508年頃(享年62・推定)
ギリシア諸ポリス重要度 4

概要

名門アルクメオン家の出。僭主を追い出したあと、血縁の集団を解体して地域で組み替えた。抽選と陶片追放を制度にし、民主政の骨格を作った。

所属

ギリシア諸ポリス

関わったできごと(1)

クレイステネスの改革BC508年 · 改革

本文

アテナイの名門アルクメオン家に生まれた。父はメガクレス、母アガリステは、ペロポネソス半島の都市シキュオンの僭主クレイステネスの娘だった。ヘロドトスは、この祖父が娘の婿をギリシア中から募り、一年がかりで品定めした話を書いている。孫は母方の祖父の名を受け継いだ。

ヘロドトスによれば、クレイステネスがアテナイ政治を主導していた前507年、アテナイ人はペルシアに「土と水」を贈った
ヘロドトスによれば、クレイステネスがアテナイ政治を主導していた前507年、アテナイ人はペルシアに「土と水」を贈ったWikimedia Commons Abbott, Jacob, 1803-1879 · Public domain

アルクメオン家は、アテナイで呪われた家と言われていた。一世紀ほど前、神殿に逃げ込んだ反乱者を一族の者が殺したためで、敵対する者は何かにつけてこの「穢れ」を持ち出した。一方で一族は富と人脈に恵まれていた。

クレイステネスが育ったのは、ペイシストラトスとその息子たちが支配する時代である(ペイシストラトスの僭主政)。アルクメオン家は僭主と対立と和解を繰り返し、追放されたこともあれば、協力したこともあった。アテナイの最高職アルコンの名を刻んだ碑文の断片には、BC525年ごろのアルコンとしてクレイステネスの名が残っている。僭主の下で要職を務めていたことになる。

BC514年、僭主ヒッピアスの弟が暗殺されると、ヒッピアスの支配は猜疑に満ちた恐怖政治に変わった。アルクメオン家は再び国外に出た。ヘロドトスによれば、一族はこのころ、焼け落ちたデルフォイのアポロン神殿の再建を請け負い、契約では石灰岩でよいとされた正面を、自腹で大理石にして建てた。その評判と金で神託の巫女を動かし、スパルタ人が神託を求めに来るたびに「アテナイを解放せよ」と告げさせた、とヘロドトスは書く。これがどこまで事実かは分からない。

BC510年、スパルタ王クレオメネス1世が軍を率いて来て、ヒッピアスは国を去った。僭主がいなくなると、貴族どうしの争いが表に出た。相手は、スパルタ王と親しいイサゴラスである。BC508年、イサゴラスがアルコンに選ばれた。劣勢に立ったクレイステネスは、それまで貴族の争いの外にいた民衆を味方に引き入れた。ヘロドトスはこれを、民衆を仲間に加えた、と表現している。

イサゴラスはクレオメネスを呼び戻した。スパルタ王は例の穢れを理由に、クレイステネスと700家族を追放させ、さらに評議会を解散させてイサゴラスの一派300人に国を任せようとした。ところが評議会が従わなかった。民衆が立ち上がり、アクロポリスに立てこもったスパルタ王とイサゴラスを包囲した。3日目、スパルタ軍は休戦して引き上げた。呼び戻されたクレイステネスは、改革に取りかかった(クレイステネスの改革)。

改革の核心は、人の分け方を変えたことにある。アテナイの市民は血縁でつながる4つの部族に分かれており、地方の名門がそれを通じて人々を動かしていた。クレイステネスは、アッティカ全土をデーモスと呼ばれる百数十の村や区に分け、それを都市部・沿岸部・内陸部の3つの地帯でまとめた。そのうえで、3つの地帯から一つずつ組を選んで一つの部族とする形で、新しい10部族を作った。一つの部族の中に、離れた土地の人々が混ざる。地縁と血縁で固まった貴族の勢力は、これで分断された。

市民の名乗りも変わった。父の名ではなく、住むデーモスの名で呼ぶことが求められた。新たに市民に加えられた人々の出自を、古い家柄で問えなくするためだったとされる。

新しい部族から50人ずつ、計500人で評議会を作った。民会に出す議案を下ごしらえする機関である。評議員を抽選で選ぶ仕組みがこのとき既に整っていたかは、史料からははっきりしない。陶片追放(陶片追放)も、のちのアリストテレス学派の書物はクレイステネスの立法だとしている。ただし最初に実際に行われたのはBC487年で、改革から20年後だった。そのため導入の時期を遅く見る説もある。

陶片追放は、権力を握りそうな者を、罪を問わずに10年間国外へ出す仕組みだった。名門ほど狙われやすい。実際、クレイステネスの甥のメガクレスはBC486年に追放されている。自分の一族にもはね返る仕組みを作ったことになる。

改革のあと、クレイステネスの名は史料から消える。いつどこで死んだのかも分からない。BC507年ごろ、アテナイはスパルタの再来に備えてペルシアに同盟を求める使節を送り、使節が服従のしるしの土と水を差し出して帰国後に非難された。クレイステネスがこれに責任を問われて退いたと見る研究者もいるが、推測の域を出ない。

アテナイ人は彼を、ソロンとならぶ民主政の祖として記憶した(ソロンの改革)。ただし当時の言葉では「デモクラティア」ではなく、法の前の平等を意味する「イソノミア」と呼ばれていたらしい。彼の姪の子がペリクレスである。ヘロドトスは、改革の直後にアテナイが周囲の敵を次々に破ったことを書き、僭主の下では誰かのために戦うので怠けていた人々が、自由になると自分のために戦うようになった、と評している。

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