できごと

アウグスティヌスの回心

Conversion of Augustine
AD386年8月
重要度 5
ローマフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民ササン朝ペルシアパルティアローマ(マクシミアヌス領)ローマ(ディオクレティアヌス領)サーミローマ(コンスタンティヌス領)ローマ(ガレリウス領)メロエヒムヤル王国アルメニアブレンミュエスAD386年8月ミラノ
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概要

ミラノの庭で泣いていた修辞学の教師が、隣の家の子の「取って読め」という声を聞き、パウロの手紙を開いた。「酒宴と酩酊、淫乱と好色をやめ」。母モニカに告げた。翌年の復活祭にアンブロシウスから洗礼。『告白』の第8巻。

場所

ミラノ
45.46°N 9.19°E · イタリア・ロンバルディア州

関わった人(2)

アウグスティヌスAD354年11月13日–AD430年8月28日 · 回心アンブロシウスAD339年頃–AD397年4月4日 · 洗礼を授けた

本文

386年の夏の終わり、ミラノのある家の庭で、31歳の修辞学の教授が、いちじくの木の下に身を投げ出して泣いていた。のちの教父アウグスティヌスである。そこへ隣の家から、子どもが歌うような声が聞こえてきた。「取って読め、取って読め」。彼は立ち上がって部屋に戻り、置いてあったパウロの手紙を開いた。この場面は、彼が10年ほど後に書いた『告白』の第8巻に描かれ、西洋で最も有名な回心の場面になった。

アウグスティヌスは354年、北アフリカのタガステ(いまのアルジェリア)に生まれた。父はキリスト教徒ではなく、母モニカは熱心なキリスト教徒だった。カルタゴで学んだ彼は、雄弁術の才で身を立て、ローマを経て384年、西ローマの宮廷が置かれていたミラノの公式の修辞学教授に任じられた。皇帝の前で頌詞を述べる役も担う職で、出世の道が開けていた。後を追ってきた母と、10代のころから15年近く連れ添った女性、二人のあいだの息子アデオダトゥスが一緒だった。

フィリップ・ド・シャンパーニュ画『聖アウグスティヌス』
フィリップ・ド・シャンパーニュ画『聖アウグスティヌス』Wikimedia Commons Philippe de Champaigne · Public domain

しかし、彼の心は落ち着かなかった。若いころ、彼は知的に洗練された教えとしてマニ教に惹かれ(マニ教の成立)、9年にわたってその聞き手だった。光と闇の二つの原理で世界の悪を説明する教えである。だが、評判の高かったマニ教の教師ファウストゥスに会って質問をぶつけると、まともな答えが返ってこず、失望した。その後は、確かなことは何も知りえないとする懐疑の立場に傾いた。

ミラノで彼の考えを変えたのは、司教アンブロシウスの説教だった。初めは評判の雄弁を品定めするつもりで聞きに行ったが、やがて中身が心に入ってくるようになった。アンブロシウスは旧約聖書の素朴に見える物語を、霊的な意味を持つ比喩として読み解いてみせた。それまで聖書を粗野な書物と見下していたアウグスティヌスにとって、これは驚きだった。同じころ、ラテン語に訳された新プラトン主義の哲学者たちの書物(プロティノスの新プラトン主義)を読み、神は体を持たない霊的な存在であり、悪はそれ自体として存在するものではなく善の欠けた状態だ、という考えに出会った。マニ教の二元論から抜け出す道が、ここで開けた。

ラテラノ大聖堂に描かれたアウグスティヌス
ラテラノ大聖堂に描かれたアウグスティヌスWikimedia Commons Public domain

頭では、もう答えは出ていた。残っていたのは、生き方を変える決断だった。出世を捨てること、そして体の欲を断つことである。母は息子に身分にふさわしい結婚をさせようと、良家の娘との婚約を整えていた。相手は結婚できる年齢に2年足りない少女で、長年連れ添った女性はアフリカへ帰された。彼女はほかの男を知らずに生きると誓って去り、アウグスティヌスは、自分の心が裂かれ血を流したと書いている。それでいて彼は待つあいだに別の女性を作った。若いころの祈りとして彼が書き記した、「私に貞潔と節制をお与えください。ただし、今すぐではなく」という言葉は、この揺れをよく表している。

その夏、アフリカ出身の同郷の役人ポンティキアヌスが家を訪ね、エジプトの砂漠の隠修士アントニオスの話をした(砂漠の修道制の始まり)。アウグスティヌスはアントニオスの名さえ知らなかった。さらにポンティキアヌスは、トリーアで皇帝に仕える役人二人が、たまたま『アントニオス伝』を読み、その場で職も婚約も捨てて修道生活に入った話をした。客が帰ると、アウグスティヌスは友人アリピウスに叫んだ。学のない者たちが立ち上がって天をつかみ取っているのに、私たちは学問を抱えたまま、血と肉の中を転げ回っている。

ボッティチェリ『書斎の聖アウグスティヌス』1480年ごろ
ボッティチェリ『書斎の聖アウグスティヌス』1480年ごろWikimedia Commons Sandro Botticelli · Public domain

彼は庭に出た。アリピウスが黙って後を追った。心の中で、古い習慣が「本当に私たちを捨てるのか」とささやき、彼は「いつまでなのか。明日、また明日なのか。なぜ今ではないのか」と自分を責めながら泣いた。そのとき聞こえたのが、少年とも少女ともつかない声の「取って読め」だった。彼は、子どもがそんな歌を歌う遊びがあっただろうかと考えたが、思い当たらなかった。そこで、これは聖書を開いて最初に目に入った箇所を読めという神の命令だと受け取った。アントニオスも、たまたま聞いた福音書の一節で生き方を変えたと聞いていたからである。

開いたのは、パウロの「ローマの信徒への手紙」13章だった。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いと妬みを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。彼はそれ以上読まなかった。読む必要もなかったと書いている。読み終えたとたん、安らぎの光が心に注がれ、迷いの闇はすべて消え去ったという。アリピウスも続く節を読み、「信仰の弱い者を受け入れなさい」を自分への言葉として受け取った。二人が家に入って告げると、母モニカは喜びにあふれた。息子が結婚して孫を見せてくれるよりはるかに大きな喜びを、神は与えてくれた、とアウグスティヌスは記す。

『神の国』12世紀写本。
『神の国』12世紀写本。Wikimedia Commons Public domain

彼はすぐには辞職を公にせず、3週間ほど後の葡萄の収穫の休暇を待って、胸の病を理由に教授職を退いた。秋から冬は、友人の持つミラノ近郊カッシキアクムの別荘で、母や息子、友人たちと過ごし、哲学の対話篇を書いた。翌387年の復活祭の前夜、アウグスティヌスは息子アデオダトゥス、友人アリピウスとともに、アンブロシウスから洗礼を受けた。そのときの八角形の洗礼堂の跡は、いまもミラノ大聖堂の地下に残っている。

アフリカへ帰る途中、ローマの外港オスティアの宿で、アウグスティヌスは母と窓辺に寄りかかって語り合い、二人で一瞬、永遠の知恵に触れたような体験をしたと書く。その数日後、モニカは熱病で死んだ。56歳だった。アウグスティヌスは葬儀のあいだ涙をこらえ、後になって一人で泣いた。故郷へ戻った彼は修道の共同体を作り、391年に北アフリカの港町ヒッポで司祭に、まもなく司教になった。

ニッコロ・ディ・ピエトロ画『聖モニカに学校へ連れられる聖アウグスティヌス』(1413-15年)
ニッコロ・ディ・ピエトロ画『聖モニカに学校へ連れられる聖アウグスティヌス』(1413-15年)Wikimedia Commons Niccolò di Pietro · Public domain

『告白』は397年ごろから数年かけて書かれた全13巻の書物で、冒頭に「あなたは私たちをご自分に向けてお造りになりました。私たちの心は、あなたのうちに憩うまで安らぎを得ません」という一節を置く。自分の過去の罪と迷いを、神に向かって語りかける形で振り返ったこの本は、人が自分の内面を語る自伝という形式の原点の一つになった。1336年、イタリアの詩人ペトラルカはヴァントゥー山の頂でこの本を開き、山の景色に感嘆する人間が自分の魂を見ようとしないという一節に打たれた。18世紀、ジャン=ジャック・ルソーは同じ『告白』という題で自伝を書いたが、彼が語りかけた相手は神ではなく、読者である人間だった。

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