できごと

末法の始まり

Decline of the Dharma
AD1052年(永承7年)
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民キメク=キプチャク可汗国遼(契丹)宋チベット西夏西夏南詔南詔と大理日本パガン朝プラティーハーラ朝高麗パガン朝クメール帝国アイヌHaripunjayaSenas大越チャンパドヴァーラヴァティーAD1052年(永承7年)京都
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概要

釈迦の死から2000年、正法1000年、像法1000年が終わり、末法1万年が始まると計算された。教えだけ残って行も証もない。この年、頼通が平等院を。源信の『往生要集』が読まれ、経を土に埋める経塚が各地に。法然、親鸞、日蓮、道元は末法の中で生まれた。

場所

京都
35.03°N 135.76°E · 日本・京都府

本文

仏教には、釈迦が亡くなってから時がたつにつれて、教えが衰えていくという考え方がある。最初の時代を正法といい、教えと、それに従う修行と、悟りを得る人が揃っている。次の像法の時代には、教えと修行は残るが、悟る人はいなくなる。最後の末法の時代には、教えだけが残り、正しく修行する人も悟る人もいなくなるという。この考えは『大集経』などの経典を通じて中国に広まり、6世紀の中国では、末法の世にふさわしい教えを説く三階教のような宗派も生まれた。

それぞれの時代の長さには、いくつもの説があった。日本で広く用いられたのは、正法を1000年、像法を1000年とし、その後に1万年の末法が続くという数え方である。起点となる釈迦の死の年についても、中国の『周書異記』という書物に基づいて、周の穆王の53年、紀元前949年とする説がとられた。そこから2000年を数えると、末法に入るのは1052年、永承7年になる。正法を500年とする数え方では552年が末法の始まりになり、『日本書紀』が仏教の伝来をこの年に置いたのはそのためだとする説もある。

1052年が近づくころ、都の人々はその年を強く意識していた。平安時代の歴史書『扶桑略記』は、この年の正月に「今年、始めて末法に入る」と書きとめている。前の年には陸奥で安倍氏との戦いが始まり(前九年の役)、都の周りでも盗賊や疫病、火事が絶えなかった。災いが続くのは末法に入ったからだ、という感覚が広まった。

前九年の役に関わる図版:A-38 C0080776
前九年の役Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

この年、関白の藤原頼通は、父の道長から受け継いだ宇治の別荘を寺に改め、平等院とした。翌1053年には、阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂、いまの鳳凰堂が完成する(平等院鳳凰堂)。この世に極楽浄土の姿を写した建物だった。

末法の考えを背景に広く読まれたのが、源信が985年に著した『往生要集』(源信『往生要集』)である。地獄の恐ろしさを細かく描き、阿弥陀仏を思い念じることで極楽に生まれ変われると説いたこの書は、貴族たちの信仰を大きく変えた。貴族は競って阿弥陀堂を建て、臨終のときには阿弥陀仏の像の手に結んだ糸を握り、仏が迎えに来るのを待った。藤原道長も、そうして亡くなったと伝えられる。

雲居寺石経山の石窟内部(河北省房山)。隋・唐以来の石刻経典が多数残る
雲居寺石経山の石窟内部(河北省房山)。隋・唐以来の石刻経典が多数残るWikimedia Commons 亜東印画協会 · Public domain

経典を地中に埋める経塚が作られるようになったのも、この流れの中である。経典を書き写して銅や陶の筒に納め、山の上などに埋める。釈迦の死から56億7000万年後に弥勒菩薩がこの世に現れて人々を救うとされ、そのときまで教えを残しておこうとしたのである。年の分かる最も古い例は、道長が1007年に奈良の吉野の金峯山に埋めた経筒で、11世紀の後半から12世紀にかけて、経塚は全国に広がった。

末法の世にどう救われるかという問いは、その後の仏教を大きく動かした。末法の世では難しい修行や学問によって悟ることはできない、という考えから、法然は阿弥陀仏の名を唱える念仏だけで救われると説き、親鸞は自分の力で善を積めない者こそ救われると説いた。日蓮は、末法の世を救うのは法華経だけだと唱えた。一方で道元は、正法・像法・末法という区別にとらわれず、いまここで坐禅に打ち込むべきだと説いた。立場は違っても、いずれも末法という時代の意識を前提に、誰がどう救われるのかを問い直したのである。

蒙古襲来を描いた『蒙古襲来絵詞』
蒙古襲来を描いた『蒙古襲来絵詞』Wikimedia Commons Fukuda Taika / (of the reproduction) Tokyo National Museum · Public domain

末法の思想は、平安時代の終わりから鎌倉時代にかけての社会不安と重なり合って受け止められた。保元・平治の乱、源平の争乱、飢饉や大地震が続いた12世紀の後半には、末法の世の到来はもはや計算の上の話ではなく、目の前の現実と感じられていた。日本の思想と文学に深く根を下ろした無常の感覚は、この時代の経験から育ったものでもある。

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