人物

イブン・ルシュド

Ibn Rushd (Averroes)
AD1126年 – AD1198年12月10日(享年72・推定)
ムワッヒド朝重要度 4

概要

コルドバの法官にして医師、そしてアリストテレスの注釈者。ラテン世界では「注釈者」とだけ呼ばれた。

関わったできごと(1)

イブン・ルシュドのアリストテレス注釈AD1180年頃 · 著者

本文

イブン・ルシュドは1126年、イベリア半島のアンダルス、コルドバに生まれた。ラテン語ではアヴェロエスと呼ばれる。コルドバは、かつて後ウマイヤ朝のカリフの都として栄え(コルドバのカリフ宣言)、町の中心には大モスクがそびえていた(コルドバの大モスク)。イブン・ルシュドの家は、代々イスラーム法の学者を出してきた名家で、同じ名の祖父はコルドバの大法官を務め、法の権威として知られた。父も法官だった。

コルドバにあるイブン・ルシュドの像
コルドバにあるイブン・ルシュドの像Wikimedia Commons Public domain

彼は家の伝統に従ってイスラーム法と神学を学び、あわせて医学、天文学、哲学を修めた。12世紀の半ば、アンダルスと北アフリカは、ベルベル人の改革運動から生まれたムワッヒド朝の支配下にあった。この王朝は厳格な信仰を掲げる一方で、君主たちは学問を好み、学者を宮廷に集めた。

1169年ごろ、イブン・ルシュドは、宮廷の医者で哲学者でもあったイブン・トゥファイルに伴われて、カリフのアブー・ヤアクーブ・ユースフに会った。のちに弟子が伝えたイブン・ルシュド自身の話によると、カリフは最初に、哲学者たちは天を永遠のものと考えるのか、それとも創られたものと考えるのか、と尋ねた。危険な問いだった。天が永遠だと言えば、神が世界を創ったという教えに背くことになる。イブン・ルシュドが恐れて口ごもっていると、カリフは自らプラトンやアリストテレスの説を語り始め、その学識の深さに彼は驚いたという。そしてイブン・トゥファイルを通じて、カリフがアリストテレスの書物が難しくて分かりにくいとこぼしている、誰かがこれをきちんと読み解いてくれるとよいのだが、と伝えられた。こうして、イブン・ルシュドの生涯の仕事が始まった。

イブン・ルシュドの失寵
イブン・ルシュドの失寵Wikimedia Commons Louis Figuier (15 February 1819 – 8 November 1894) · Public domain

彼はギリシア語を読めなかった。アリストテレスの著作は、9世紀から10世紀にかけてバグダードで訳されたアラビア語の訳で読んだ。それでも、その仕事は精密だった。同じ書物について、要点をまとめた短い注釈、本文に沿って説明する中くらいの注釈、本文を一節ずつ引いてそれに長い解説を付ける大きな注釈と、何通りもの注釈を書き分けた(イブン・ルシュドのアリストテレス注釈)。新プラトン主義の考えなど、後の時代に混じり込んだものを取り除き、アリストテレスがもともと言ったことに戻ろうとしたのである。

注釈の仕事のかたわら、彼はセビーリャとコルドバで法官を務め、のちにはコルドバの大法官に就いた。カリフの侍医にもなった。法学では、法学派ごとの意見の違いとその根拠を整理した書物を、医学では、医学の全体をまとめた書物を書いている。祖父と同じように、法の世界でも重んじられた人だった。

トマス・アクィナス賛美図に描かれたイブン・ルシュド
トマス・アクィナス賛美図に描かれたイブン・ルシュドWikimedia Commons Sailko · CC BY 3.0

彼は、哲学と信仰の関係についても、はっきりした立場を示した。クルアーンは人々に、世界を見て考えるよう命じている。だから、理性によって真理を求める哲学は、信仰に背くどころか、学ぶ力のある者にとっては信仰の務めでさえある。真理は真理と矛盾しない。もし聖典の言葉と理性の証明が食い違って見えるなら、それは聖典の言葉を文字どおりではなく、たとえとして読むべき場合なのだ、と論じた。

この主張の向こうには、100年ほど前の神学者ガザーリーがいた。ガザーリーは『哲学者の自己矛盾』を書き、哲学者たちの説の多くは誤りであり、いくつかは信仰に背く、と厳しく批判していた。イブン・ルシュドは、その書名をもじった『自己矛盾の自己矛盾』で一つ一つ反論した。だが、イスラーム世界の主流は、彼の側には傾かなかった。

イブン・ルシュドと哲学者ポルフュリオスの架空の議論、14世紀写本の挿絵
イブン・ルシュドと哲学者ポルフュリオスの架空の議論、14世紀写本の挿絵Wikimedia Commons Monfredo de Monte Imperiali · Public domain

晩年、イブン・ルシュドは宮廷の寵を失った。1195年ごろ、次のカリフのもとで、彼は異端の疑いをかけられてコルドバの近くの町へ追われ、哲学の書物が焼かれた。キリスト教徒の国々との戦いのさなかで、カリフが保守的な法学者たちの支持を必要としたためとも言われる。2年ほどのちに許されて、モロッコのマラケシュに呼び戻されたが、1198年12月、その地で亡くなった。遺体はのちにコルドバへ運ばれた。若い神秘家イブン・アラビーは、その葬列を見送った思い出を書き残している。

アンダルスでは、彼の後に続く哲学者は現れず、その著作はアラビア語の原文が失われたものも多い。代わりにそれを読み継いだのは、ユダヤ教徒とキリスト教徒だった。注釈はヘブライ語に訳されてユダヤの学者たちに学ばれた。同じコルドバ生まれのマイモニデスも、晩年にその著作を読んで高く評価している。13世紀の初めからはラテン語への翻訳が進み、パリやオックスフォードの大学で、アリストテレスを読むときの欠かせない手引きとなった。ラテン世界では、彼は名前で呼ばれずに、ただ「注釈者」と呼ばれるようになる。アリストテレスが「哲学者」と呼ばれたのと対になる呼び方だった。

アリストテレスが弟子に教える場面、アラビア語写本の挿絵(1220年頃)
アリストテレスが弟子に教える場面、アラビア語写本の挿絵(1220年頃)Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

その読み方は、論争も呼んだ。パリ大学では、彼の注釈に従って、人間の知性は全ての人に一つしかない、世界は永遠である、と論じる教師たちが現れ、教会は1270年と1277年にこうした説を禁じた。トマス・アクィナスは、彼の注釈を深く用いながら、知性についての説には反論の書を書いている。ダンテ・アリギエーリは『神曲』の中で、洗礼を受けなかった古代の賢者たちと並べて、大注釈を書いたアヴェロエスを地獄の入口の穏やかな場所に置いた。イスラーム世界の主流からは外れた思想が、海を越えて、ヨーロッパの大学の学問の土台の一つになったのである。

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