ニザーミーヤ学院の創設
概要
宰相が建てた法学の学院。給費で学生を集め、教授を雇う。マドラサという形式が、ここからイスラム世界に広がる。
場所
33.32°N 44.37°E · イラク
関わった人(1)
ニザームルムルクAD1018年–AD1092年 · 設立本文
11世紀の半ば、イスラーム世界の東半分は、草原から来たトルコ系のセルジューク朝の手に落ちた。1055年、トゥグリル・ベグはバグダードに入り、アッバース朝のカリフを押さえていたシーア派のブワイフ朝を退けた(ダンダーナカーンの戦いから15年後のことになる)。カリフは宗教の長として残り、政治と軍事はスルタンが握る形ができた。
そのセルジュークの帝国を、実際に動かしていたのが宰相のニザームルムルクだった。イランの官僚の家に生まれ、スルタンのアルプ・アルスラーンとその子マリク・シャーの二代に、30年にわたって仕えた。遊牧の戦士たちが打ち立てた国に、税を取り、役人を動かし、法を行う仕組みを据えたのは彼だった。

宰相には、気がかりなことがあった。西のエジプトには、シーア派のイスマーイール派を奉じるファーティマ朝があり、カイロにアズハル学院の創設を建て、各地に宣教者を送り込んで、スンナ派のカリフの権威を揺さぶっていた。帝国の内側でも、信仰と法をめぐる学派の争いが絶えなかった。帝国を支える役人と裁判官と説教師を、どこで、どう育てるか。
1065年、ニザームルムルクはバグダードに学院の建設を始めた。1067年に開かれたこの学院は、彼の名を取ってニザーミーヤと呼ばれた。
新しかったのは、建物よりも仕組みのほうだった。学院は、ワクフと呼ばれる寄進財産の収益で運営された。店や浴場、農地などからの収入を、学院のためだけに使うよう定めて寄進する。宗教的な寄進なので、後から取り上げることは難しい。そのお金で、教授には給与が払われ、学生には寄宿の部屋と食事と、わずかな手当が与えられた。貧しい家の若者でも、才能があれば学問を続けられる。そして、学院を建てた宰相や支配者が代わっても、学院は続く。
教える中身は、スンナ派の四つの法学派のうちのシャーフィイー派の法学で、神学ではアシュアリー派の立場が重んじられた。宰相自身がシャーフィイー派に属していた。教授の人選には宰相が関わり、学院は国家に必要な人材を育てる場になった。初代の教授には、名高い法学者アブー・イスハーク・アッシーラーズィーが招かれた。彼は、学院の土地が正しく手に入れられたものか疑わしいとして、初めは就任を渋ったと伝えられる。
ガザーリーが、ここで教えている。1091年、30代の前半で教授に迎えられた彼は、数百人の学生を集める評判の教師になった。だが4年後、名声の絶頂で、自分の学問は神のためではなく名誉のためではないかという疑いにとらわれ、言葉が出なくなった。ガザーリーは職を捨て、修行者として旅に出た。その遍歴の中から、哲学への批判(ガザーリー『哲学者の矛盾』)や、神秘主義と法学を結びつける大著が生まれる。
同じ形の学院が、ニーシャープール、イスファハーン、バルフ、ヘラート、メルヴ、モースルなど、帝国の各地の都市にも建てられた。ニーシャープールの学院では、ガザーリーの師にあたる神学者ジュワイニーが教えていた。
マドラサと呼ばれる学院は、ニザーミーヤより前にも、とりわけイラン東部にあった。ニザーミーヤは最初のマドラサではない。だが、国家の宰相が帝国じゅうに同じ形の学院を網の目のように置いたことで、ワクフで支え、給費で学生を養い、法学を中心に教えるという型が定まり、そこから西はエジプトやシリア、東はインドまで、イスラーム世界全体に広がった。12世紀には、シリアやエジプトの支配者たちが十字軍と戦いながら、次々にマドラサを建てている。
ニザームルムルクは1092年、イスマーイール派の刺客に殺された。暗殺教団の名で後に知られる集団の手によるものとされる。それでもバグダードのニザーミーヤは続き、13世紀にはペルシアの詩人サアディーもここで学んだ。1258年、モンゴル軍がバグダードを破壊したあとも、学院はしばらく残った。
ワクフで支えられ、教授と学生が集い、学位にあたる教える資格を与える。この学院のあり方を、ボローニャ大学の創立やパリ大学の成立のようなヨーロッパの大学の遠い手本と見る説もある。ただ、大学は教師や学生の自治の組合として生まれたもので、国家が建てたマドラサとは成り立ちが違うとする反論も強い。