エウクレイデス
概要
『原論』を書いた。定義と公理から順に積み上げるという書き方そのものが、以後2000年の手本になる。本人については何も分かっていない。
別名
ユークリッド
所属
プトレマイオス朝関わったできごと(1)
『原論』BC300年頃 · 著者本文
生まれた年も、死んだ年も、生まれた土地も伝わっていない。分かっているのは、紀元前300年頃、エジプトのアレクサンドリアで数学を教えていたらしいということだけである。アレクサンドロス大王が建てたこの町(アレクサンドリア建設)は、大王の死後、部将のプトレマイオス1世が開いた王朝の都となり、王家が学者を集めた学問の殿堂と図書館(アレクサンドリアの図書館)によって、ギリシア世界の学問の中心になりつつあった。

本人のことを伝える数少ない記述も、700年以上後のものである。5世紀の哲学者プロクロスは、エウクレイデスはプラトンの弟子たちより若く、アルキメデスより年上で、プトレマイオス1世の時代の人だと書いた。4世紀の数学者パッポスは、穏やかで、人の業績を正当に認める人だったと書いている。
逸話も二つ伝わる。王プトレマイオスが「幾何学を学ぶのに、『原論』より近道は無いのか」と尋ねると、「幾何学に王の道はございません」と答えたという。もう一つは、ある学生が最初の命題を学んだところで「これを学んで何の得があるのですか」と尋ねると、召使いを呼んで「この者に3オボロス(小銭)をやれ。学んだことから儲けを得たいらしいから」と言った、という話である。どちらも数百年後の書物に出てくるもので、似た話は別の学者についても語られている。人物像を作るための挿話で、本人については何も分かっていないと言うほうが正確である。

残ったのは書物である。中心になるのが13巻からなる『原論』だ。第1巻は、「点とは部分を持たないものである」「線とは幅の無い長さである」といった23の定義と、5つの公準、5つの共通の考えから始まる。公準とは、どんな2点も直線で結べる、といった、証明せずに認めてもらう約束事である。そこから先は、すでに証明したことだけを使って、次の命題を一つずつ証明していく。全部で465の命題が、一本の鎖のようにつながっている。
扱う範囲は広い。三角形と円の性質、ピュタゴラスの定理(ピュタゴラス)、比例の理論、整数の性質、比で表せない量の分類、そして最後の巻で、正多面体が5種類しかないことの証明に至る。2つの数の最大公約数を求める手順(ユークリッドの互除法)や、素数が限りなく存在することの証明は、いまも数学の授業で教えられている。

内容の多くは、エウクレイデス一人が見つけたものではない。それ以前にも『原論』と名の付く本はあり、ピュタゴラス派の人々や、プラトンの学園の数学者たちが見つけた成果を、彼が選び、並べ直し、足りない証明を補ったと考えられている。新しかったのは、ばらばらの知識を、少数の約束事から論理だけで導かれる一つの体系に組み上げたことだった。それまでの本は、のちの完璧な体系に取って代わられて失われた。
5つの公準のうち、5番目だけは長く複雑だった。直線の外の1点を通ってその直線と交わらない直線は1本しか引けない、という意味の内容で、平行線の公準と呼ばれる。これは他の公準から証明できるのではないかと、2000年にわたって多くの数学者が挑んだ。19世紀になって、この公準を認めなくても矛盾の無い別の幾何学が作れることが分かった。その曲がった空間の幾何学は、のちに重力を空間の曲がりとして説明する理論(一般相対性理論)の道具になる。

ほかに、光の進み方を論じた『光学』、天体の見かけの動きを扱う書なども残っている。円錐の切り口の曲線を扱った書など、失われたものも多い。
『原論』はギリシア語で写し継がれ、9世紀頃にはバグダードでアラビア語に訳された。12世紀にはアラビア語からラテン語に訳されてヨーロッパに戻り、1482年にはヴェネツィアで印刷された。1607年には、イエズス会の宣教師マテオ・リッチと明の学者徐光啓が前半の6巻を中国語に訳し、『幾何原本』と名付けた。日本語の「幾何学」という言葉は、ここから来ている。
聖書に次いで多く版を重ねた書物と言われることもある。19世紀の終わりまで、イギリスなどの学校では『原論』そのものが幾何学の教科書だった。アイザック・ニュートンの『プリンキピア』も、定義と公理から命題を積み上げる形で書かれている。数学だけでなく、哲学や法律の議論でも、確かなことから一歩ずつ論を進めることの手本とされてきた。
作者について何も分からない書物が、2000年以上にわたって読まれ続けた。それは、書いた人の名声ではなく、論証そのものの力で信じさせる本だったからである。