ジョンソンの英語辞典

概要
書店の組合が、フランスやイタリアのような国家的な辞典を英語にも、と企画した。アカデミー・フランセーズが60年近くかけた仕事を、サミュエル・ジョンソンは屋根裏で6人の写字生と9年で仕上げた。4万2773語。革新は、語義に文学からの引用を添えたことである。11万4000の用例。定義には彼の癖が出た。「オート麦——イングランドでは馬に、スコットランドでは人に与えられる穀物」「辞書編纂者——無害な苦役者」。150年、英語の標準であり続けた。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
サミュエル・ジョンソンAD1709年9月18日–AD1784年12月13日 · 編んだ本文
17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパの国々は、自国の言葉を整え、乱れから守ることを国の事業にしていた。イタリアでは1612年に、フィレンツェの学会アカデミア・デッラ・クルスカが辞書を出した。フランスでは1635年に学士院アカデミー・フランセーズが作られ(アカデミー・フランセーズの創設)、その会員たちが長い年月をかけて、1694年に国語の辞典を完成させた。イギリスにはそうした学会が無かった。ドライデンやデフォー、スウィフトらが英語の学会を作るべきだと何度も唱えたが、実現しなかった。英語の辞書はそれまでにもあったが、多くは難しい語だけを集めたもので、ふつうの言葉は載っていなかった。最初の英語の辞書とされるのは、1604年に出たロバート・コードリーの小さな本で、ラテン語やフランス語から入ってきた難しい言葉三千ほどに、やさしい言い換えを添えたものだった。18世紀に入ると、ネイサン・ベイリーがふつうの言葉も含めた語源辞典を出してよく売れ、ジョンソンも仕事の土台にこれを使った。だが、文学の言葉の使い方を示し、国語の手本となるような大きな辞書は、まだ無かった。
そこで動いたのは国ではなく、商売人だった。1746年6月18日、ロンドンの書店主たちの組合が、サミュエル・ジョンソンと英語辞典を作る契約を結んだ。報酬は千五百ギニー、期間は三年の見込みである。ジョンソンは三十七歳。無名ではなかったが、雑誌の仕事で暮らしを立てる文筆家だった。フランスでは四十人の会員が四十年かけたのだと友人に言われ、ジョンソンはこう答えたと伝えられる。四十かける四十は千六百。三対千六百、これがイギリス人とフランス人の比率だ。三年でやってみせるという大言壮語だった。

実際には九年かかった。それでも一人の仕事としては驚異的である。ジョンソンはロンドンのゴフ・スクエアの家の屋根裏を仕事場にし、六人の写字生を雇った。うち五人はスコットランド人だった。ジョンソンはスコットランド人をからかう冗談を好んだが、仕事を支えたのは彼らである。作業の手順はこうだった。ジョンソンがシェイクスピアやミルトン、ドライデン、ベーコン、ロック、聖書、科学や法律の書物を読み、使い方の手本になる箇所に印をつける。写字生がその箇所を紙片に書き写し、語ごとに分ける。集まった用例を前に、ジョンソンが語の意味を書いていく。借りた本にまで線を引いたので、貸し主に怒られたという。
この順序が新しかった。それまでの辞書は、編者が語の意味を決め、必要があれば例を添える作り方だった。ジョンソンは、実際に使われている文章の用例を先に集め、そこから意味を引き出した。言葉の意味を、使われ方から帰納したのである。この方法は百年後、オックスフォード英語辞典の大事業に受け継がれていく。

1755年4月15日、『英語辞典』が刊行された。大判の二巻本で、見出し語は四万二千七百七十三語、引用された用例はおよそ十一万四千にのぼる。値段は四ポンド十シリングで、職人の数か月分の稼ぎにあたった。巻頭の序文は、英語の散文の名品とされる。仕事を始めたとき、ジョンソンは言葉を一定の形に固めることを目指していた。だが九年の作業の末に、彼は、言葉を固定できると考える辞書編纂者は笑われるべきだと書くに至った。言葉は生きて変わり続けるもので、それを止めた国民などどこにもいない、というのである。序文の終わりには、名声も利益も与えられないまま仕事をやり終え、喜ばせたかった人ももういない、という深い寂しさがにじむ。作業のさなかの1752年に、妻テティを亡くしていた。
定義の多くは的確だったが、ときに彼の人柄がそのまま出た。オート麦は、「イングランドではふつう馬に与えられ、スコットランドでは人を養う穀物」。辞書編纂者は、「辞書を書く者。無害な苦役者」。後援者は、「たいてい横柄に支え、おべっかで報いられる卑しい者」。年金は、「働きなくして与えられる手当」で、イングランドでは国家に雇われた者が国を裏切った報酬を指すのがふつうだ、とまで書いた。皮肉なことに、ジョンソン自身が1762年に国王から年金を受けることになる。それでも項目は書き換えなかった。逆に、網の目を説明した定義は、交差する線のあいだに等しい間隔の隙間を持つもの、という調子で、かえって分かりにくい例として有名になった。
辞書の完成間近には、もう一つの出来事が語り草になった。計画の初め、ジョンソンは貴族のチェスターフィールド伯に支援を期待して近づいたが、伯はわずかな金を渡しただけで、以後は相手にしなかった。ところが完成が近づくと、伯は雑誌に辞書を称える文章を寄せた。ジョンソンは手紙を書いた。閣下の玄関で待たされ、追い返されてから七年がたった。溺れる者を黙って見ていて、岸にたどり着いたところで手を差し伸べて煩わせるのが後援者というものか。自分は恩恵なしにここまでやり遂げた、と。この手紙は、文筆家が貴族の庇護から独り立ちしていく時代を象徴する文書として、いまも引かれる。書店主たちの組合という市場の資金で辞書が作られたこと自体が、その転換を物語っていた。
ジョンソンの辞書は完璧ではない。比較言語学が生まれる前の仕事で、語源には誤りが多い。それでも、百五十年近くにわたって英語圏で最も権威ある辞書であり続けた。大判の本は高すぎたので、翌年に出た縮約版のほうが広く売れた。綴りがまだ揺れていた時代に、この辞書の綴りが手本とされ、英語の綴りが固まっていくうえで大きな役割を果たした。アメリカでウェブスターがアメリカ英語の辞書を打ち立て(ウェブスターのアメリカ英語辞典)、イギリスでオックスフォード英語辞典が1928年に完結するまで、「辞書」と言えばまずこれだった。
ジョンソンという人が広く記憶されているのは、辞書のためだけではない。若い友人ジェームズ・ボズウェルが、何十年にもわたってその会話を書き留め、1791年に伝記にまとめた。英語で書かれた伝記の最高傑作の一つとされる本である。ジョンソン自身も辞書の後、1765年にシェイクスピアの全集を校訂して出し、晩年には英国の詩人たちの伝記を書いて、批評家としても名を残した。ロンドンに飽きた者は人生に飽きた者だ、という言葉もそこに残る。ゴフ・スクエアのジョンソンの家は、いま記念館になっていて、その前の広場には、彼がかわいがった猫ホッジの銅像が、牡蠣の殻の上に座っている。ボズウェルによれば、ジョンソンは召使いが猫を嫌うようにならないよう、ホッジの好物の牡蠣を自分で買いに出かけたという。