概要
シンシナティの外科医が、手が汗ばまないようにと作った塩化アルミニウムの液を、娘のエドナ・マーフィーが「オドロノ」の名で売り出した。売れない。広告代理店のジェイムズ・ウェッブ・ヤングが、女性向けの雑誌に一文を載せた。腕の内側の曲線に、恥ずべき匂いがある——それを本人だけが知らない、と。抗議が来て、購読を止めた読者もいたが、売上は跳ね上がった。存在しなかった不安を作り、それを解く商品を売る。広告というものの性格が、この一件で、はっきり見えた。
場所
39.10°N -84.51°E · アメリカ・オハイオ州
本文
**汗**。
(——**汗そのものは、**ほとんど、匂わない**。
〈**(1)**エクリン腺**。
**〈——全身にある。**
**——出るのは、**ほぼ、水と塩**。**
**——体温を、下げるためのもの。〉**
**(2)**そして、**アポクリン腺**。
**〈——腋の下、乳輪、外耳道など。**
**——脂質とタンパク質を、含む。**
**——思春期から、働き始める。〉**
**——**そして、**匂いを作るのは、**皮膚の細菌である**。
**〈——分泌物を、分解する。**
**——できるのが、**短鎖脂肪酸**と、**チオアルコール**。**
**——後者が、**独特の匂いの、主犯**である。〉〉**
**——**つまり**。
〈**——**体臭は、**汗の匂いではなく、**細菌の代謝の匂い**である**。
**——**だから、**汗を止めるか、**細菌を減らすか**、二つの道がある**。
**〈——制汗剤(antiperspirant)と、**消臭剤(deodorant)**。**
**——別のものだが、**日本語でも英語でも、混同されている**。〉〉)**
**シンシナティ**。
(**1888年**。
〈**——**「マム」**(Mum)という商品が、**フィラデルフィアで、売り出された**。
**——**酸化亜鉛の、**クリーム**。
**——**細菌を、**抑える**。
**——**世界で最初の、**商業的な消臭剤**とされる**。〉
**——**そして、**もう一つ**。
〈**——**シンシナティの、**外科医**。
**——**エイブラハム・マーフィー**。
**——**手術中に、**手が汗ばむ**のを、嫌った**。
**——**そこで、**塩化アルミニウムの液**を、作った**。
**〈——汗腺の出口を、**一時的に、塞ぐ**。〉〉**
**——**娘が、**それを、売ろうとした**。
〈**——**エドナ・マーフィー**。
**——**1912年**、まだ十代である**。
**——**「オドロノ」**(Odo-Ro-No)と名付けた**。
**〈——「Odour? Oh no!」の、語呂合わせ。〉〉)**
**売れない**。
(**(1)**そもそも、**必要とされていなかった**。
〈**——**体臭は、**当たり前のもの**である**。
**——**気になるなら、**香水を、付ければよい**。〉
**(2)**そして、**評判が悪かった**。
〈**——**液が、**赤い**(塩化第二鉄を含んでいた)。
**——**服に、**染みが付く**。
**——**そして、**酸性で、**肌が、荒れる**。〉
**(3)さらに、**話題にしにくい**。
〈**——**腋の匂いについて、**人に、言えない**。
**——**そして、**広告に、書けない**。〉
**——**1913年の売上は、**赤字だった**。〉)
**1919年**。
(——**広告代理店**、**J・ウォルター・トンプソン**。
〈**——**担当したのは、**ジェイムズ・ウェッブ・ヤング**(1886〜1973年)。
**——**後に、**『アイデアのつくり方』**を書く人物である**。〉
**——**彼が、**女性誌『レディーズ・ホーム・ジャーナル』**に、**一頁の広告を出した**。
〈**——**見出し**。
**〈——「Within the Curve of a Woman's Arm」。**
**——女性の腕の、その曲線の内側に。〉**
**——**本文**。
**〈——「A frank discussion of a subject too often avoided」。**
**——避けられがちな話題を、率直に論じます。**
**——そして、こう続く。**
**——**多くの女性が、それに気づいていない。本人だけが、知らないのだ**、と。〉〉**
**——**起きたこと**。
〈**(1)**抗議が来た**。
**〈——雑誌の購読を、**止めた読者がいた**。**
**——ヤング自身の、**知人の女性が、口をきかなくなった**と伝えられる。〉**
**(2)**そして、**売上が、**跳ね上がった**。
**〈——翌年、**112パーセント**増えたと言われる。〉〉)**
**何が、起きたのか**。
(——**商品が、**問題を、解いたのではない**。
〈**——**広告が、**問題を、作った**。
**——**そして、**その問題の、解を、売った**。〉
**——**やり方**。
〈**(1)**読者に、**恥を、置く**。
**(2)**そして、**「本人には、分からない」**と言う**。
**〈——だから、**確かめようがない**。**
**——確かめようがない不安は、**消せない**。〉**
**(3)さらに、**社会的な帰結**を、示す**。
**〈——結婚できない。**
**——職を失う。**
**——1920年代から30年代の広告は、**この線を、露骨に進めた**。〉〉**
**——**そして、**男性向け**。
〈**——**しばらく、**手が付かなかった**。
**——**汗は、**男らしさの証**だと、されていた**。
**——**大恐慌の時期に、**「職を失う理由になる」**という広告が、現れる**。
**——**それでも、**普及は、女性より、二十年ほど、遅れた**。〉)
**その後**。
(**(1)**形**。
〈**——**液から、**クリーム**へ**。
**——**そして、**1952年、**ロールオン**。
**〈——ボールペンの機構を、応用した。〉**
**——**さらに、**1965年ごろから、**スプレー**。
**〈——1977年、**フロンの使用が、規制される**。**
**——スティック型に、戻っていく。〉〉**
**(2)**そして、**成分**。
〈**——**アルミニウム塩**が、主流になった**。
**——**発癌性や、**アルツハイマー病との関係**が、繰り返し疑われ、**
**——**そのたびに、**否定的な結果が、出ている**。
**〈——ただし、**議論は、続いている**。〉〉**
**(3)さらに、**土地による違い**。
〈**——**東アジアの多くの人は、**ABCC11という遺伝子**の型により、**アポクリン腺の分泌が、少ない**。
**〈——同じ遺伝子が、**耳垢が乾いているか**も、決めている。〉**
**——**だから、**体臭が、弱い**。
**——**それでも、**制汗剤の市場は、大きい**。
**〈——匂いの強さではなく、**匂いへの不安**が、市場を作っている。〉〉)**
**残ること**。
(——**広告の教科書に、**必ず出てくる一件である**。
〈**——**「需要を、創造する」**という言葉の、**最初の、明瞭な例**として**。
**——**そして、**倫理の教材としても、**引かれ続けている**。〉
**——**匂いを扱う技術の、**行き着いた先**。
〈**——**[[koudou]]は、**匂いを、味わうために、扱った**。
**——**[[eau-de-cologne]]は、**匂いを、纏うために、扱った**。
**——**そして、**これは、**匂いを、恥じるために、扱った**。〉
**——**そして、**その七十年後**。
〈**——**[[odorant-receptors]]が、**匂いという感覚の仕組みそのものを、明らかにする**。
**——**恥じる仕組みが、**先に、市場になっていた**。〉)