楔形文字の成立
概要
最初に書かれたのは詩でも法でもなく、麦とビールの帳簿だった。文字は数えるために生まれている。
場所
31.32°N 45.64°E · イラク・ムサンナー県
本文
紀元前4千年紀の終わり、メソポタミア南部のウルクは、数万人が暮らす、当時の世界で最も大きな町の一つだった(ウルク。都市というものの始まり)。巨大な神殿があり、神殿は周辺の畑と家畜と働き手を管理していた。大麦を集め、蓄え、配る。羊の群れを数え、毛を刈り、織物にする。誰が何をどれだけ納め、誰に何をどれだけ渡したか。人の記憶では、もう追いきれない規模になっていた。
文字が生まれる前にも、数を記録する工夫はあった。メソポタミアの各地の遺跡からは、円錐や球や円盤の形をした小さな粘土の玉が大量に見つかっている。一つが羊1頭、あるいは穀物の一定の量を表す計算の道具だったと考えられている。これを粘土の球の中に封じ、外側に中身の形を押し付けておく。やがて中の玉を封じなくても、表面の印だけで用が足りると気づかれ、平らな粘土板に印を押すようになった、とする説がある。この道筋がどこまで正しいかには異論もあるが、文字が数えることと深く結びついて生まれたことは確かである。

最初の粘土板に書かれているのは、詩でも祈りでもない。ウルクの神殿の跡から出た、紀元前3300年から3100年ごろの数千枚の粘土板の大半は、大麦が何升、羊が何頭、ビールが何杯、誰から誰へ、という倉庫と配給の記録である。働き手に配る大麦やビールの量の記録もある。ほかに、役職名や物の名前を並べた単語の一覧があり、これは書記を育てる教科書だったとみられる。
はじめは物の形をかたどった絵だった。麦の穂、羊の頭、器の形。葦の茎を削った筆で柔らかい粘土に書くとき、曲線を引くより、筆の角を押し付けて楔の形の窪みを作るほうが速く、くっきり残る。速さを求めるうちに絵は崩れ、楔の組み合わせからなる記号になった。楔形文字という呼び名は、この窪みの形から後の時代につけられたものである。
記号が音を表すようになると、事情が変わる。たとえば矢を表す記号を、同じ音を持つ「生命」という語に使う。こうした判じ物のような使い方が広がると、物の名前だけでなく人名も、動詞も、文法の語尾も書けるようになる。紀元前2600年ごろには、王の業績を記した碑文や、神々への賛歌が書かれはじめた。『ギルガメシュ叙事詩』もハンムラビ法典も、もとは大麦の勘定のために作られた道具で書かれている。

楔形文字はもともとシュメール語を書くための文字だったが、その後、まったく系統の違う言語を書くのにも使われた。セム系のアッカド語、アナトリアのヒッタイト語、イランのエラム語、そして古代ペルシア語。今日ラテン文字が英語にもトルコ語にも使われているように、一つの文字の仕組みが、多くの言語に貸し出された。紀元前14世紀には、エジプトの王とバビロニアやヒッタイトの王たちが、アッカド語の楔形文字で外交の手紙をやりとりしている。
文字を書けたのは、ごく限られた書記たちだった。書記の学校は「粘土板の家」と呼ばれ、少年たちは何年もかけて数百の記号と、その読み方と、計算を学んだ。教師に叩かれたことを嘆く生徒の作文まで残っている。数え方には60を一つの単位とする仕組みが使われ、1時間を60分、円を360度に分ける私たちのやり方は、遠くこの伝統に連なっている。
粘土は燃えない。それどころか、火事で焼かれると素焼きのように固くなって残る。紀元前7世紀にアッシリアの都ニネヴェが攻め落とされたとき、王の宮殿の書庫も焼けたが、そのおかげで数万点の粘土板の断片が土の中に残った(ニネヴェの図書館)。これまでに出土した楔形文字の粘土板は数十万点にのぼるとされ、その大半はいまも読まれ、研究されるのを待っている。

3000年あまり使われたのち、楔形文字はしだいに廃れた。より少ない文字で書けるアラム文字などのアルファベットが広まり、粘土板に書く習慣は神殿の学者たちのあいだにだけ残った。知られている最後の粘土板は、紀元後1世紀の後半に書かれた天文の記録である。AD1世紀ごろを最後に、使う人がいなくなった。
文字は、世界のいくつかの場所で、互いに知らないまま生まれたと考えられている。メソポタミアとほぼ同じころのエジプトの象形文字、紀元前2千年紀の中国の甲骨文字、そしてアメリカ大陸のメソアメリカの文字である。エジプトの文字がメソポタミアの影響を受けたかどうかは議論があるが、中国とメソアメリカの文字は独自に生まれたとみられる。どこでも、文字は国家や神殿が人と物を管理する必要と結びついていた。

読み方は、それから1700年以上忘れられていた。手がかりになったのは、イランの山の崖に刻まれたベヒストゥン碑文である。ペルシアのダレイオス1世が、自分の即位の経緯を、古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語の三つの言語で刻ませたものだった。イギリスの軍人ヘンリー・ローリンソンらが危険な崖をよじ登って写し取り、比較的易しい古代ペルシア語から順に解読が進んだ。1857年には、ロンドンの学会が同じ未発表の碑文を4人の学者にそれぞれ別々に翻訳させ、訳がほぼ一致したことで、解読が正しいと認められた。1872年には、大英博物館のジョージ・スミスが粘土板の中に、旧約聖書の洪水の物語によく似た話を見つけて大きな騒ぎになった。最初は帳簿だった文字が、こうして人類最古の物語のいくつかを、私たちに読ませてくれている。