トマス・ホッブズ
概要
アルマダの年に、母が恐怖で早産した。「私と恐怖は双子」。オックスフォード、キャヴェンディッシュ家の家庭教師(中断をはさんで約70年仕えた)。ベーコンの秘書、ガリレオに会い、デカルトと論争した。1640年、内戦を恐れてパリへ。『リヴァイアサン』。1651年、帰った。王党派に憎まれ、議会に無神論で調べられ、チャールズ2世が守った。91歳。「私は暗闇の中の跳躍をする」。
関わったできごと(1)
『リヴァイアサン』AD1651年 · 書いた本文
トマス・ホッブズは、1588年4月5日、イングランド南西部ウィルトシャーのマームズベリに近いウェストポートに生まれた。スペインの無敵艦隊がイングランドに攻め寄せてくる年だった(アルマダの海戦)。84歳のときにラテン語の韻文で書いた自伝で、彼は、艦隊が来るという噂に母が恐れおののき、自分を早産した、母は双子を産んだのだ、私と恐怖とを、と書いている。恐怖は、のちに彼の政治哲学の中心に置かれることになる。

父は田舎の牧師だったが、無学で酒好きで、教会の戸口で同業の牧師と喧嘩して殴りつけ、町から姿を消した。子供たちは、裕福な手袋職人だった叔父に育てられた。ホッブズは地元の学校でラテン語とギリシア語に秀で、14歳でエウリピデスの悲劇をラテン語に訳したといわれる。
1603年、オックスフォード大学に進んだ。中世以来のアリストテレス流の講義には熱が入らず、伝記作家オーブリーによれば、仕掛けでカラスを捕まえて遊ぶほうが楽しかったという。1608年、卒業と同時に、大貴族キャヴェンディッシュ家に、跡継ぎの若者の家庭教師として雇われた。のちのデヴォンシャー伯の一族である。それから70年、途中の中断をはさみながらも、彼は生涯この一族とともに暮らすことになる。家庭教師として生徒とヨーロッパ大陸を旅し、一族の書斎で読書にふけった。

1620年代には、哲学者フランシス・ベーコンの口述を書き取る手伝いもしたと伝えられる。1629年には、古代ギリシアの歴史家トゥキュディデスの『戦史』を英語に訳して出した。民衆の集会が扇動に流されて国を誤る様子を描いた本で、彼は民主政の危うさを示すために訳したと語っている。
40歳のころ、ある紳士の書斎で、開いたままになっていたエウクレイデスの『原論』(『原論』)を目にした。第1巻の三平方の定理だった。そんなことがあるはずがない、と思わず叫んだ彼は、その証明が拠っている前の定理を、さらにその前の定理をとたどり、ついに納得した。そこから幾何学に夢中になった、とオーブリーは伝えている。確かな出発点から一歩ずつ論証を積み上げる幾何学のやり方が、彼の哲学の方法になった。

1634年からの大陸旅行で、彼はパリで修道士メルセンヌを中心とする学者たちの輪に加わり、1636年にはフィレンツェの近くで老ガリレオ・ガリレイを訪ねた。この世界にあるのは物体とその運動だけであり、人間の感覚も思考も感情も、物体の運動として説明できる。この考えのもとに、自然と人間と国家を一つの体系で論じる構想を固めていった。
イングランドでは国王チャールズ1世と議会の対立が深まっていた。1640年、ホッブズは、王の主権は分割できないと論じる『法の原理』を書き、写本で回覧させた。その年の11月、議会が開かれて王の側近が次々に追及され始めると、身の危険を感じて、彼はいち早くパリへ逃れた。自分は誰よりも先に逃げた者だった、と彼は後年冗談めかして言っている。パリでの亡命は11年に及んだ。1642年に『市民論』を出し、デカルトの『省察』には、精神もまた物体の運動ではないかと迫る反論を寄せた(ルネ・デカルト)。1646年には、亡命してきた王太子、のちのチャールズ2世に数学を教えた。
そのあいだに祖国は清教徒革命と国王処刑に陥り、1649年には国王が処刑された(チャールズ1世の処刑)。1651年、ホッブズはロンドンで『リヴァイアサン』を出した(『リヴァイアサン』)。国家という権力がなければ、人間は自分を守るために互いを恐れ、奪い合う。それは万人の万人に対する戦いであり、そこでの人生は孤独で、貧しく、つらく、残酷で、短い。だから人々は、互いに約束を交わして、自分を守る力を一人の人間か一つの合議体に譲り渡し、平和と安全を得る。そうして生まれる国家を、彼は旧約聖書に出てくる海の怪物の名で呼んだ。主権者の力は絶大でなければならないが、人々を守れなくなった主権者に従う義務はない、とも論じた。

この本は、どの陣営からも嫌われた。王党派は、権力の根拠を王家の血筋でも神の授けでもなく人々の約束に置いたことを怒り、聖職者たちは無神論の匂いを嗅ぎ取った。パリで居場所を失った彼は、1651年の暮れ、クロムウェルの共和国が治めるイングランドへ戻り、新しい政府に服従した。
その後は論争の日々だった。1655年の『物体論』で、円と同じ面積の正方形を作図できると発表したが、これは誤りで、オックスフォードの数学者ウォリスに徹底的に批判された。彼は誤りを認めず、論争は20年以上続いた。
1660年に王政が復古すると、かつての教え子チャールズ2世は彼を宮廷に迎え、年金を与えた。毛深く頑固な老哲学者を、王は「熊」と呼んでからかい、廷臣たちは熊が来たぞと面白がったと伝えられる。1666年、疫病とロンドン大火が続くと、下院は神の怒りを招いた無神論の書物を調べようとし、『リヴァイアサン』が名指しされた。ホッブズは身の危険を感じて手元の原稿の一部を焼いたといわれる。王の庇護で罪には問われなかったが、以後、政治と宗教についての本をイングランドで出版することは許されなかった。内戦の歴史を論じた『ビヒモス』は、彼の死後に出版された。

老いても彼は休まなかった。70代までテニスをし、毎朝散歩をし、夜は肺のためにと、誰にも聞かれないよう扉を閉めて大声で歌った、とオーブリーは書いている。80代でラテン語の自伝を書き、ホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』を英語の韻文に全訳した。ほかにすることがなかったからだ、と彼は言った。
1679年12月4日、デヴォンシャー伯の館ハードウィック・ホールで死んだ。91歳だった。近くのオルト・ハックナルの教会に葬られた。いよいよ最後の航海に出る、暗闇への大きな跳躍だ、と言ったと伝えられるが、確かではない。恐怖から出発して国家の必要を論じた彼の議論は、およそ40年後に出たジョン・ロックの『統治二論』をはじめ、近代の政治思想の出発点になった。