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Person / 人

トマス・ホッブズ

Thomas Hobbes
AD1588年4月5日 – AD1679年12月4日(享年91)
イングランド重要度 5

概要

アルマダの年に、母が恐怖で早産した。「私と恐怖は双子」。オックスフォード、キャヴェンディッシュ家の家庭教師(60年)。ベーコンの秘書、ガリレオに会い、デカルトと論争した。1640年、内戦を恐れてパリへ。『リヴァイアサン』。1651年、帰った。王党派に憎まれ、議会に無神論で調べられ、チャールズ2世が守った。91歳。「私は暗闇の中の跳躍をする」。

関わったできごと(1)

『リヴァイアサン』AD1651年 · 書いた

本文

1588年4月5日、ウィルトシャーのウェストポート(マームズベリの隣)。父は牧師で、酒を飲み、教会の戸口で別の牧師を殴って、逃げた。叔父(手袋職人)が育てた。「アルマダが来る、という知らせで、母は恐怖に襲われて、私を早産した。母は双子を産んだ。私と、恐怖と」(ラテン語の自伝、1672年)。

マームズベリの学校でラテン語とギリシア語。オックスフォード、モードリン・ホール(1603〜08年。「私は何も学ばなかった。鴉を捕まえるのが楽しかった」)。1608年、ウィリアム・キャヴェンディッシュ(後のデヴォンシャー伯)の息子の家庭教師。それから70年、キャヴェンディッシュ家に。息子と大陸旅行(1610年)。ベーコンの秘書(1620年頃。口述を書き取った)。1629年、トゥキュディデスの英訳(「民主政の愚かさを示すために」)。40歳で、ユークリッドの『原論』を、誰かの書斎で開いていて、第1巻の定理47(ピタゴラス)を見て「これはあり得ない」と言って、証明を逆にたどって、幾何学に恋をした(オーブリー)。1634〜36年、大陸。パリでマルセンヌの輪に入り、フィレンツェでガリレオに会った。運動。全ては物体で、全ては運動。

1640年、「法の原理」(写本で回覧した。王権の擁護)。11月、長期議会が招集されて、「最初に逃げた」。パリ、11年。『市民論(De Cive)』(1642年)。デカルトの『省察』への「第三反論」(1641年。心は物体の運動)。1646年、亡命中の王太子チャールズに数学を教えた。1651年、『リヴァイアサン』。パリの王党派に嫌われて(「無神論者」)、フランスの聖職者にも嫌われて、1652年の冬、イングランドへ帰って、国務会議に服従を申し出た。

1655年、『物体論(De Corpore)』(円の求積法を発表して、間違っていて、オックスフォードの数学者ウォリスに20年、公開で嘲られた。ホッブズは撤回しなかった)。1658年、『人間論』。1660年、王政復古。チャールズ2世は彼を「熊」と呼んで、年100ポンドの年金を与えた(払われなかった)。宮廷では「熊が来た。熊をからかえ」。1666年、大火と疫病のあと、下院が「無神論と冒涜の本」を調べる法案を出して、『リヴァイアサン』が名指しされた。ホッブズは自分の原稿を燃やした。王が守った。それから、宗教と政治については、英語では出版できなくなった。

『ビヒモス』(内戦の歴史、1668年執筆、1682年出版)。『イングランドの法についての対話』。84歳でラテン語の韻文で自伝。86歳から、ホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』の全訳(「他に書くことがなかったから」)。ラテン語の『リヴァイアサン』(1668年、アムステルダム)。

毎日、テニス(75歳まで)、散歩、夜は部屋で歌った(肺のため。誰も聞いていない所で)。1679年12月4日、デヴォンシャー伯のハードウィック・ホールで死んだ。91歳。最後の言葉は「私は暗闇の中の跳躍をするところだ(I am about to take my last voyage, a great leap in the dark)」、と伝える。オルト・ハックネルの教会に。

「知は力なり(Scientia potentia est)」は彼の言葉(『リヴァイアサン』第10章)で、ベーコンの言葉とされることが多い。