写真51番
概要
キングス・カレッジで、ロザリンド・フランクリンと大学院生レイモンド・ゴスリングが、DNAの繊維にX線を当てて撮った。露光62時間。写真に、はっきりとしたX字の模様が出た。らせん構造の証拠である。フランクリンは、確証を積み上げてから発表する方針だった。1953年1月、同僚のモーリス・ウィルキンズが、彼女に断りなく、この写真をワトソンに見せた。ワトソンは後に「それを見た瞬間、私の口はぽかんと開き、脈が速くなった」と書いている。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
ロザリンド・フランクリンAD1920年7月25日–AD1958年4月16日 · 撮った本文
分子はあまりに小さく、どんな顕微鏡でもその形を直接見ることはできない。20世紀の科学者がその形を知るために使ったのが、X線による結晶の解析である。1912年、ドイツのラウエが、結晶にX線を当てると、原子の規則正しい並びによってX線が曲げられ、写真の乾板に斑点の模様が現れることを示した(X線そのものはX線の発見で見つかっていた)。翌年、イギリスのブラッグ父子が、その模様から原子の並び方を計算する方法を確立した。形を直接見るのではない。影の模様から、形を推理するのである。
1940年代から50年代の初めにかけて、遺伝のしくみの正体がしだいに絞り込まれていった。1944年、アメリカのエイヴリーらは、遺伝の情報を運ぶのはたんぱく質ではなくDNAらしいことを示し、1952年のハーシーとチェイスの実験が、それを強く裏づけた。1950年には、生化学者シャルガフが、DNAの中の四つの塩基のうち、アデニンとチミンの量、グアニンとシトシンの量が、それぞれ等しいという規則を見つけていた。なぜそうなるのかは誰にも分からなかった。答えは、DNAの立体の形の中にあるはずだった。メンデルのエンドウの論文から90年近く、遺伝の正体はあと一歩のところにあった。

ロンドンのキングス・カレッジでは、ジョン・ランドールが率いる生物物理学の研究室がDNAに取り組んでいた。戦時中にレーダーなどの研究をしていた物理学者たちが、戦後、生き物の研究に転じた例の一つである。そこには、ニュージーランド生まれの物理学者モーリス・ウィルキンズがいた。そして1951年1月、一人の女性の研究者が加わった。ロザリンド・フランクリンである。
フランクリンは1920年、ロンドンのユダヤ系の裕福な銀行家の家に生まれた。ケンブリッジ大学で物理化学を学び、戦時中は石炭の細かい構造を調べる研究で優れた成果を上げた。その後パリの国の化学研究所に移り、X線で物質の構造を調べる技術を徹底的に身につけた。当時この分野で最も腕の確かな研究者の一人であり、本人はパリの日々を生涯で最も幸せな時期として振り返っている。

キングス・カレッジでの仕事は、最初からつまずいた。ランドールがフランクリンに送った手紙は、DNAのX線の研究を彼女と大学院生レイモンド・ゴスリングが担うと読める書き方だった。しかしウィルキンズはそれを知らされておらず、彼女は自分の研究を手伝いに来る人だと思っていた。二人の関係はこじれ、ほとんど口をきかない間柄になった。当時の大学には、男性の教員だけが使える食堂があるなど、女性の研究者を隔てる慣習も残っていた。
フランクリンは、まず装置を改良した。X線を細く絞る管を使い、試料のまわりの湿り気を細かく調整できるようにした。これが決め手になった。DNAの繊維は、湿り気によって形を変える。乾いた状態では分子がきっちり並んで斑点が多く細かな像になり、湿った状態では分子がのびて、より単純な、らせんの特徴が出た像になる。彼女はこの二つをA型とB型と名づけて区別した。それまでの写真には、二つの形が混じった、ぼやけた像しか写っていなかった。
1952年5月、フランクリンとゴスリングは、湿った状態のB型のDNAの繊維にX線を当て、60時間あまりかけて一枚の写真を撮った。研究室の記録で51番と番号が振られた写真である。そこには、中心で交わる大きなXの字の模様が、くっきりと写っていた。このX字は、分子がらせんの形をしていることを示す、教科書どおりのしるしだった。斑点の間隔からは、らせんがおよそ34オングストロームでひと回りし、その間に塩基の層がおよそ10段重なっていること、分子の太さが約20オングストロームであることが読み取れた。
それでも、フランクリンはすぐには発表しなかった。彼女は、より細かな情報を含むA型の像を先に解析し、計算で確かめられた完全な答えを得てから発表するという手堅い方針をとっていた。そして実際に、答えに近づいていた。1953年の2月から3月にかけての彼女のノートには、DNAが二本の鎖からなり、糖とリン酸の骨格が外側にあることが書き留められている。
DNAの形をめぐっては、海の向こうにも強力な競争相手がいた。アメリカのカリフォルニア工科大学のライナス・ポーリングである。たんぱく質のらせん構造を見抜いたことで知られる、当時最も名高い化学者だった。ポーリングは1952年、ロンドンの学会に出かける予定だったが、政治的な理由から旅券の発給を一時拒まれ、キングス・カレッジのX線の写真を見る機会を逃したとも言われる。1953年の初め、ポーリングはDNAの構造の案を発表した。それは三本の鎖が絡み合い、リン酸の骨格を内側に置いた形で、化学的にも誤った案だった。誤りに気づいたワトソンとクリックは、ポーリングが過ちを正す前に正しい答えにたどり着かなければならないと焦った。
その間に、事態は別の場所で動いていた。ケンブリッジ大学では、アメリカから来た若い生物学者ジェームズ・ワトソンと、物理学から転じたフランシス・クリックが、模型を組み立てて構造を推理しようとしていた。1953年1月、フランクリンが研究室を去ることになり、DNAの仕事をウィルキンズへ引き継ぐ流れの中で、写真51番はゴスリングからウィルキンズの手に渡っていた。ウィルキンズは、ロンドンを訪ねてきたワトソンにこの写真を見せた。フランクリンの許しは得ていなかった。ワトソンは後に、その写真を見た瞬間に口がぽかんと開き、脈が速くなった、と書いている。
ほぼ同じころ、ケンブリッジの研究者マックス・ペルーツは、研究費を出していた医学研究会議の内部の報告書をクリックに見せた。そこにはフランクリンのまだ発表していない測定の結果が含まれていた。結晶学にくわしいクリックは、その数値から、DNAの二本の鎖が互いに逆向きに走っていることを読み取った。報告書は秘密の文書ではなかったが、フランクリンの了解を得たものでもなかった。ペルーツはのちに、手続きに不注意だったことを認めている。
1953年2月の終わりから3月の初めにかけて、ワトソンとクリックは二重らせんの模型を完成させた。二本の鎖が逆向きにらせんを描き、内側でアデニンとチミン、グアニンとシトシンが対になって結びつく。シャルガフの規則は、この対の組み方でぴたりと説明できた。そしてこの形は、一本の鎖を型にしてもう一本を写し取るという、遺伝情報の複製の仕組みをも示していた(DNAの二重らせん)。
1953年4月25日、イギリスの科学誌『ネイチャー』に、三つの論文が並んで載った。ワトソンとクリックの模型の論文、ウィルキンズらの論文、そしてフランクリンとゴスリングの論文である。写真51番は三つ目の論文に載り、模型を裏づける実験の証拠となった。三つが並ぶ形は、それぞれが別々に結論に達したかのように見えた。ワトソンとクリックの論文の末尾には、キングス・カレッジの研究者たちの未発表の結果と考えの、おおまかな内容を知ったことに刺激を受けた、という意味の謝辞が添えられている。実際には、彼らは最も重要な写真そのものを見ていた。
フランクリンはその春、キングス・カレッジを離れ、ロンドンのバークベック・カレッジに移った。そこでは植物に病気を起こすタバコモザイクウイルスの構造に取り組み、ウイルスの遺伝物質がたんぱく質の殻の内側のどこに収まっているかを明らかにするなど、優れた成果を上げた。共同研究者のアーロン・クルーグは、のちにこの流れの研究でノーベル化学賞を受けている。彼女はポリオのウイルスの研究にも手を広げようとしていた。しかし1958年4月16日、卵巣の癌のため37歳で亡くなった。長年X線を浴び続けたことが病気にかかわったのではないかとよく言われるが、確かなことは分かっていない。
1962年、ワトソン、クリック、ウィルキンズの3人がノーベル生理学・医学賞を受けた。フランクリンはすでに亡くなっていた。ノーベル賞は亡くなった人には贈られず、一つの賞を分け合えるのは3人までである。
1968年、ワトソンはDNAの発見の顛末をつづった『二重らせん』を出した。その中で彼はフランクリンを、本人が使っていなかった愛称で呼び、その服装や容貌をあげつらい、自分のデータの意味を読み取れなかった人として描いた。クリックやウィルキンズ、フランクリンの友人たちは原稿に抗議し、当初予定していた大学の出版局は出版を断った。ワトソン自身も本の結びでは、当時の自分たちの彼女への見方は不公平だったこと、学問の世界で認められようとする聡明な女性が直面する闘いを、遅すぎるほど後になって理解したことを記している。
その後、フランクリンの姿は描き直されてきた。1975年には友人アン・セイヤーが反論の伝記を書き、2002年にはブレンダ・マドックスがくわしい伝記を出した。2023年には、新たに見つかった当時の手紙や記事の下書きをもとにした論文が『ネイチャー』に載った。そこから見えてきたのは、データを「盗まれた」だけの被害者という像とも、自分のデータの意味を分からなかった人という像とも違う、自ら答えに近づき、二つの研究班の仕事が並行していることも知っていた、対等な貢献者としての彼女の姿である。
フランクリンの物語は、のちに舞台にもなった。写真の番号をそのまま題にした劇が2008年にアメリカで初演され、ロンドンでも上演されている。科学の発見が誰のものかという問いと、研究の場で女性が置かれた立場を考える題材として、彼女の名はいまも語られ続けている。ヨーロッパの火星探査車にも、その名が付けられた。
DNAの形が分かったことは、遺伝子を読み、切り、つなぐ技術への道を開いた(遺伝子組み換え技術の誕生)。その出発点の一つに、湿り気を整えた装置の前で60時間あまりかけて撮られた、Xの字の模様の一枚の写真がある。