ラーム・モーハン・ローイ
概要
寡婦の焚死(サティー)の廃止を求めた。経典を自分で読み直し、それは経典の要求ではないと論証する。
関わったできごと(1)
サティーの禁止AD1829年 · 論証と運動本文
ラーム・モーハン・ローイは1772年、ベンガル地方の村ラーダーナガルの、バラモンの地主の家に生まれた。15年前のプラッシーの戦いで、イギリス東インド会社はベンガルの支配権を握り始めていた。だが、行政と教養の言葉は、なおムガル帝国以来のペルシア語である。ローイは少年時代に、ビハールのパトナでペルシア語とアラビア語を学び、イスラームの神学と哲学に触れた。のちにヒンドゥー教の聖地ベナレス(ヴァーラーナシー)でサンスクリットを学び、ヒンドゥーの経典を原典で読めるようになる。

若いころから、彼は神々の像を拝む習わしに疑問を持ち、そのことで父と衝突して家を出たと、のちの回想の中で語っている。各地を旅して回ったというが、その足どりはよく分かっていない。19世紀の初め、彼はペルシア語で、唯一の神を信じることこそあらゆる宗教の核心だ、と論じる小論を書いた。イスラームの一神教の考え方から学んだものは大きかった。
1805年ごろから、ローイは東インド会社の役人ジョン・ディグビーのもとで書記や税務の仕事をし、英語を身につけた。ディグビーを通じて、イギリスの新聞や自由主義の思想にも触れる。1814年、40歳を過ぎて仕事を辞め、ベンガルの中心都市カルカッタに移り住むと、そこから著述と論争の人生が始まった。ヒンドゥーの古い哲学書、ウパニシャッドをベンガル語と英語に訳し、ヒンドゥー教ももともとは唯一の神を説いていたのであり、多くの神の像を拝むのは後の時代に付け加わったものだ、と主張した。

ローイの名を最も広く知らしめたのは、サティーへの反対である。夫を亡くした妻が、夫の遺体を焼く火に自ら身を投じる、あるいは投じさせられる習わしで、ベンガルでは19世紀の初めに年に数百件が報告されていた。ローイ自身、1811年に兄が死んだとき、兄の妻がサティーで焼かれるのを見て、この習わしと闘うことを誓った、という話が伝わっている。ただ、この話は後に語られたもので、事実かどうかには議論がある。
ローイのやり方は独特だった。1818年から、彼はサティーを擁護する者と反対する者の対話という形の小冊子を出し、ヒンドゥーの法典や経典を一つずつ引いて論じた。経典は夫を亡くした女に、身を焼くことを命じてはいない。むしろ、身を慎んで生きることのほうを、より尊い道として説いている。サティーはその教えに反し、しかも実際には、遺産を狙う親族が女を薪の上に縛りつけて焼くことさえある、と。外から野蛮だと非難するのではなく、ヒンドゥーの内側の論理で、習わしの根拠を崩そうとしたのである。正統派のバラモンたちは激しく反発し、ローイの命を狙う者もいたといわれる。

1829年、総督ウィリアム・ベンティンクは、ベンガルでサティーを法で禁じた(サティーの禁止)。サティーを擁護する人々は、宗教への干渉だとしてロンドンに訴え出た。ローイは自らイギリスへ渡って禁止を支持し、1832年、訴えは退けられた。
ローイは信仰の改革にも踏み込んだ。1828年、カルカッタに、像を置かず、唯一の神を讃える集会を始めた。これがのちにブラフモ・サマージと呼ばれる団体になる。キリスト教についても、聖書から奇跡の話を除いてイエスの倫理の教えだけを集めた本を出し、三位一体の教えを批判して、宣教師たちと論争した。どの宗教であっても、理性で受け入れられる核心だけを取り出そうとしたのである。

女性の財産の相続の権利を求め、一人の男が多くの妻を持つことにも反対した。ベンガル語とペルシア語で新聞を出し、1823年に植民地政府が出版の規制を強めたときには、言論の自由を求める請願を出している。同じ年、政府がサンスクリットの学校を新たに建てようとした際には、総督に手紙を送り、インドに必要なのは古い文法の学問ではなく、数学や自然科学、化学や解剖学といった西洋の学問だと訴えた。この主張は、のちにインドの教育が英語と西洋の学問へ傾いていく流れを先取りするものになった。
1830年、名目だけの存在となっていたムガル皇帝から、年金の増額をイギリス政府に掛け合う役目を託され、「ラージャ」の称号を与えられて、イギリスへ渡った。インドの高位のバラモンが海を越えることは、当時、身分を失う行いとされていた。ロンドンでは議会の改革を支持し、知識人たちに歓迎された。だが1833年9月、イングランド西部のブリストルの近くで病に倒れ、そこで亡くなった。墓はいまもブリストルにある。

ブラフモ・サマージは、のちに詩人ラビンドラナート・タゴールの父デーベンドラナートが受け継ぎ、ベンガルの知識人の間に広がった。宗教と社会の改革、新聞と出版、英語の教育が花開いたこの時代は、ベンガル・ルネサンスと呼ばれ、ローイはその父とされる。一方で、彼の改革は都市の上層のバラモンの視点からのもので、植民地の支配そのものを問うことはなかった、とする批判もある。インドの古い伝統を、西洋の目で裁いたのではないか、という問いも投げかけられてきた。それでも、経典を自分で読み直し、内側から習わしを問い直したそのやり方は、のちのインドの改革者たちに長く受け継がれた。