できごと

ウパニシャッドの成立

The Upanishads
BC8〜BC5世紀
年に諸説あり重要度 4
ウパニシャッドの成立に関わる図版:Guru and DiscipleI
Guru and DiscipleI Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

概要

祭式の手順を伝えるヴェーダから、「私とは何か」を問う思索が枝分かれした。輪廻と解脱という枠組みができ、仏教もジャイナ教もここを土台に反論する形で出てくる。

場所

ガンジス川中上流域位置は特定されていない(誤差 ±400km)
27.50°N 81.50°E · インド北部

本文

インドで最も古い聖典ヴェーダは、祭式の書だった。どの神に、どんな供物を捧げ、どの句をどの抑揚で唱えるか。正しい祭式は神々を動かし、雨や子や家畜をもたらすと信じられた。祭式を執り行うのはバラモンで、ヴェーダの言葉は口伝えで一字一句違えずに受け継がれた。やがて、その祭式の意味を解き明かす文献が付け加えられていき、その最後の層に現れたのがウパニシャッドである。

最も古いウパニシャッドとされるのは、『ブリハッド・アーラニヤカ』と『チャーンドーギヤ』で、紀元前7世紀から前6世紀ごろ、仏教が生まれる前に成立したと考えられている。舞台はガンジス川の中流から上流の一帯で、ちょうど森が切り開かれ、農地が広がり、王国と都市が育ち始めた時代である。ウパニシャッドの数は伝統的に108とされるが、古く重要なものは十数編で、成立は数百年にわたる。

アディ・シャンカラ。不二一元論ヴェーダーンタを説き、ウパニシャッドに注釈した(ラヴィ・ヴァルマ画)
アディ・シャンカラ。不二一元論ヴェーダーンタを説き、ウパニシャッドに注釈した(ラヴィ・ヴァルマ画)Wikimedia Commons Raja Ravi Varma · Public domain

ウパニシャッドの問いは、祭式の効き目から、世界と自分の本当の姿へと移った。祭式で神々を動かすのではなく、すべての根源を知ることが大事になる。そこで語られたのが、宇宙の根本の原理ブラフマンと、個人の奥にある本当の自己アートマンである。そして、この二つは別のものではなく同じものだ、という考えが示された。

『チャーンドーギヤ』には、父ウッダーラカ・アールニが、学びを終えて得意になって帰ってきた息子シュヴェータケートゥを教える場面がある。父は息子に、塩を水に入れて一晩置かせ、翌朝塩を取り出すよう言う。塩は見えないが、どこをなめても塩辛い。目に見えない微細なものが、すべてに行き渡っている。それが真実であり、アートマンであり、お前はそれである、と父は言う。「汝はそれなり」として知られる一句である。『ブリハッド・アーラニヤカ』では、賢者ヤージュニャヴァルキヤが、王の宮廷で他のバラモンたちと論争し、女性の論客ガールギーの鋭い問いにも答える。彼は、アートマンを言葉でとらえることはできず、「そうではない、そうではない」としか言えないと説いた。

輪廻と業の考えも、ここで形を整えた。人は死んでもまた生まれ変わり、生前の行い(業、カルマ)が次の生を決める。この生まれ変わりの連鎖は苦しみであり、そこから抜け出す解脱が最終の目標になる。解脱のための鍵が、アートマンとブラフマンが一つであると知ることだった。興味深いことに、この新しい教えの一部は、バラモンではなく、王族の身分の者がバラモンに教えるという形で語られている。

紀元前5世紀ごろ、同じガンジス川の流域から、新しい宗教が次々に現れた。ゴータマ・シッダールタ(ゴータマ・シッダールタ)は、輪廻と業という枠組みを受け入れながら、変わらない自己アートマンが存在するという考えを否定した(釈迦の悟り)。ジャイナ教を開いたマハーヴィーラも、厳しい苦行と不殺生による解脱を説いた(マハーヴィーラの教え)。どちらも、ヴェーダの祭式とバラモンの権威を退けた。反論するためには、まず共通の土台が要る。ウパニシャッドが整えた問いの立て方が、その土台になった。

「ウパニシャッド」という語は、「近くに座る」という意味に解されることが多い。師の近くに座って授けられる秘密の教えというわけである。ただし、語源については別の解釈もある。

ウパニシャッドはのちに、ヴェーダの最後にして頂点にある教え「ヴェーダーンタ」とされ、8世紀ごろの哲学者シャンカラらがその注釈を書いて、インド哲学の大きな流れを作った。神への献身を説く運動も、その哲学の上に立った(バクティ運動)。

バクティ運動に関わる図版:Meerabai (crop)
バクティ運動Wikimedia Commons Raja Ravi Varma · Public domain

ヨーロッパに届いたのは17世紀以降である。ムガル帝国の皇子ダーラー・シコーは、1657年にウパニシャッド50編をペルシア語に訳させた。帝位争いで弟のアウラングゼーブに敗れて処刑される直前のことである(アウラングゼーブの治世)。このペルシア語訳を、フランスの学者アンクティル=デュペロンがラテン語に訳し、1801年から翌年にかけて出版した。それを読んだドイツの哲学者ショーペンハウアーは、これは自分の生の慰めであり、死の慰めにもなるだろう、と書いている。森の中で師の傍らに座って語られた問いが、2000年以上を隔てて、ヨーロッパの哲学に入り込んだ。

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