できごと

『国富論』

The Wealth of Nations
AD1776年
重要度 5
『国富論』に関わる図版:Wealth of Nations
Wealth of Nations Wikimedia Commons Gerhard Streminger · Public domain

概要

富は金銀ではなく労働の生産物だと定め、分業と市場が国を豊かにすると論じた。経済学がここから一つの学問になる。

場所

エディンバラ
55.95°N -3.19°E · イギリス・スコットランド

関わった人(1)

アダム・スミスAD1723年(6月5日洗礼)–AD1790年7月17日 · 著者

本文

1776年3月、ロンドンで二巻の分厚い本が出た。題は『諸国民の富の性質と原因に関する研究』。いま『国富論』と呼ばれるこの本の出版は、アメリカのアメリカ独立宣言の4か月前にあたる。問いは単純だった。国はなぜ豊かになるのか。そして、豊かさとはそもそも何なのか。

著者のアダム・スミスは、スコットランドの東海岸の港町カーコーディの生まれである。グラスゴー大学で学び、のちに同じ大学で道徳哲学の教授になった。道徳哲学は当時、倫理だけでなく法や政治や経済までを含む広い学問だった。1759年に出した最初の本『道徳感情論』は、人が他人の立場に自分を置いて感じ取る「共感」から、道徳がどのように生まれるかを論じたもので、評判を得た。親しい友人には哲学者のデイヴィッド・ヒュームがいた。

『百科全書』のピン製造の挿絵(1762年)
『百科全書』のピン製造の挿絵(1762年)Wikimedia Commons Designed by Goussier, engraved by Defehrt (1762); file author unknown · Public domain

1764年、スミスは教授の職を辞し、若い貴族の家庭教師としてフランスとスイスを旅した。報酬は大学の給料よりはるかに良く、一生分の年金も約束された。パリでは、国の富の源は農業にあると説く重農主義の学者ケネーやテュルゴーらと語り合った。帰国したスミスは故郷に引きこもり、ほぼ10年をかけて大著を仕上げた。

当時のヨーロッパの国々で支配的だったのは、後に重商主義と呼ばれる考え方である。国の富とは金と銀のことであり、輸出を増やして輸入を減らし、差額として金銀を国内に貯めれば国は豊かになる。そのために、国は関税で外国の品を締め出し、特定の会社に貿易の独占を与え、植民地には本国とだけ取引させた。

ドイツ語訳版『国富論』(1776年)
ドイツ語訳版『国富論』(1776年)Wikimedia Commons Zentralbibliothek Zürich · Public domain

スミスはこれを根本から否定した。金や銀は富を測る道具にすぎない。本当の富は、国民が一年間の労働で生み出す、暮らしに必要で便利なものの総量である。国が豊かかどうかは、金庫にどれだけ金貨があるかではなく、ふつうの人がどれだけのものを手にできるかで決まる。

では、労働はどうすればより多くを生むのか。スミスの答えは分業だった。本の冒頭に、有名なピン工場の例がある。一人の職人がピン作りのすべてを一人でこなせば、一日に20本も作れないだろう。ところが、針金を伸ばす、切る、尖らせる、頭をつけるといった作業を18ほどの工程に分け、10人で手分けしたある小さな工場では、一日に4万8千本以上を作っていた。一人あたり4800本である。人は一つの作業に慣れて腕を上げ、作業を切り替える時間を省き、やがて手間を減らす道具を思いつく。

エドワード・ギボン。『国富論』を称賛した
エドワード・ギボン。『国富論』を称賛したWikimedia Commons Henry Walton · Public domain

分業がどこまで進むかは、市場の広さで決まる、とスミスは続ける。小さな村では、ピンだけを作って暮らすことはできない。売れる相手が多くなるほど、仕事は細かく分けられ、生産性は上がる。だから、関税や独占で交易を狭めることは、国を貧しくする。

人々がこの仕組みに加わるのは、親切心からではない。「私たちが夕食を期待できるのは、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心のおかげではなく、彼らが自分の利益を大事にするからだ」。それぞれが自分の得を考えて働き、取引する。それでも、市場での競争を通じて、社会全体が必要なものを手に入れる。

チャールズ・ジェームズ・フォックス。議会で初めて『国富論』に言及した
チャールズ・ジェームズ・フォックス。議会で初めて『国富論』に言及したWikimedia Commons Joshua Reynolds · Public domain

「見えざる手」という言葉は、この長い本の中に一度しか出てこない。国内の産業と外国の産業のどちらに資本を投じるかを論じた箇所で、人は自分の利益だけを考えているのに、見えざる手に導かれて、意図していなかった社会の利益を促すことになる、と書かれている。後世、この一句は市場に任せればすべてうまくいくという主張の旗印になったが、スミスが本の中で使ったのは、その限られた文脈においてだった。

スミスは、商人や製造業者を信用していたわけではない。同じ商売の者どうしが集まると、楽しみのための集まりであっても、話は世間への陰謀か、値段をつり上げる相談で終わる、とまで書いている。彼が攻撃したのは、そうした商人たちが政府と結びついて手に入れる独占と特権だった。とりわけ東インド会社の独占には手厳しい。

リチャード・コブデン。『国富論』の影響を受けた
リチャード・コブデン。『国富論』の影響を受けたWikimedia Commons Mathew Benjamin Brady · Public domain

分業の影の面も見ていた。一生を単純な作業の繰り返しで過ごす人は、考える力を使う機会を失い、人として望ましい姿から遠ざかる。それを防ぐために、国は庶民の子どもが読み書きと計算を学べる学校を支えるべきだと説いた。国の役目として、国防と、正しい裁判と、道路や橋のような、個人では引き合わないが社会に必要な施設を挙げている。

本はよく売れ、初版は半年ほどで売り切れたとされる。死の床にあったヒュームは、刊行を喜ぶ手紙を書き送り、その年の夏に世を去った。スミス自身は1778年にエディンバラの関税委員の職に就き、その町で後半生を送った。自由な貿易を説いた人が密輸を取り締まる役人になったわけで、本人もその皮肉に気づいていたらしい。1790年に亡くなる前、未完成の草稿の多くを焼かせている。

『国富論』は、経済を一つの仕組みとして全体から説明しようとした最初の本の一つになった。ここから経済学は、道徳哲学の一部から独立した学問として歩み始める。19世紀のイギリスでは、その考えが穀物法の廃止などの自由貿易の政策を後押しした。一方で、同じ時代の工場の現実を見つめたカール・マルクスは、分業と市場が労働者に何をもたらすかを、正反対の結論で描いた(『資本論』)。20世紀にはケインズ『一般理論』が、市場が自ずと完全な雇用に落ち着くという見方に疑問を投げた。

穀物法の廃止に関わる図版:1815 Corn Law, An Act to amend the Laws now in force for regulating the Importation of Corn
穀物法の廃止Wikimedia Commons British Government · Public domain

スミスはいまも、市場を重んじる人々の始祖として掲げられる。だが、彼の最初の本は共感についての本であり、晩年まで彼は『国富論』よりも『道徳感情論』の改訂に力を注いでいた。人は自分の利益を求めるが、同時に他人の目を気にし、他人の痛みを感じる。その両方を備えた人間が、どうすれば互いに豊かになれるのか。スミスが考え続けたのは、その問いだった。

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