オッカムの剃刀
概要
「必要なしに存在を増やすな」。フランシスコ会の哲学者が、普遍は名前にすぎないと説いた。教皇に呼ばれて異端を疑われ、皇帝のもとへ逃げ、「剣で私を守れ、私はペンで守る」と言ったと伝えられる。
場所
51.75°N -1.26°E · イングランド
関わった人(1)
オッカムのウィリアムAD1287年頃–AD1347年 · 哲学者本文
二つの説明が同じように物事を説明できるなら、仮定の少ないほうを選べ。科学でも日常の推理でも使われるこの考え方は、「オッカムの剃刀」と呼ばれる。余計な仮定を剃刀で剃り落とす、という意味である。名の元になったのは、14世紀のイングランドの神学者、オッカムのウィリアムである。
ウィリアムは1280年代の終わりごろ、ロンドンの南西のオッカム村に生まれたとされる。若くしてフランシスコ会の修道士となり、オックスフォードで神学を学んだ。1320年前後、彼は神学の教科書の注解を書き、論理学の大きな本をまとめる。だが、正式な博士の位を得る前に学問の場を離れることになり、のちに「尊敬すべき入門者」とあだ名された。

オッカムの名で知られる文句として、「存在は必要なしに増やされるべきでない」というラテン語がよく引かれる。だが、この形の文はオッカムの本には見つからない。17世紀の学者が書いたものとされる。オッカム自身が書いたのは、「必要なしに複数のものを置くべきではない」「より少ないものでできることを、より多くのもので行うのは無駄である」といった文である。同じ考えはアリストテレスにも、オッカムより前の中世の学者にもあり、彼が発明したわけではない。ただ、オッカムほど徹底してこの原則を使い、それまで当然とされてきたものを次々に切り捨てた学者はいなかった。剃刀という呼び名が生まれたのは、彼の死から300年ほどあとのことである。
オッカムがこの剃刀を向けた最大の相手は、「普遍」だった。人間、馬、白さといった言葉は、何を指しているのか。個々の人間とは別に、「人間そのもの」というものが、何らかの形で実際に存在するのか。中世の学者の多くは、トマス・アクィナスをはじめ、普遍は個物の中に何らかの仕方で実在すると考えていた。オッカムは、実際に存在するのは一つひとつの個物だけで、普遍は、似た個物をまとめて指すために心の中に作られる概念、言わば記号にすぎないと説いた。こうした立場は唯名論と呼ばれる。余計な存在を立てずに世界を説明しようとする剃刀の発想が、ここに表れている。

神についても、オッカムは理性で言えることを切り詰めた。神は全能で、どんな秩序でも別様に定めることができた。だから、神の存在や性質を、自然の観察から理性で証明することはできない。それは信仰によって受け入れるものだ。信仰と理性を大きな体系の中で調和させたトマスに対し、オッカムは両者の領分を分けたのである。この考えは、のちに「新しい道」と呼ばれる学派として広まり、その流れの神学を学んだ一人に、マルティン・ルターがいる。
1324年、オッカムは異端の疑いで、教皇の座があった南フランスのアヴィニョンに呼び出された(教皇のアヴィニョン捕囚)。オックスフォードの元総長が、彼の説を危ういものとして訴えたのである。教皇の委員会が彼の主張を何年も調べるうちに、別の大きな争いに巻き込まれる。キリストと使徒たちは財産を持たなかったのか、という清貧をめぐる論争である。フランシスコ会は持たなかったと説き、教皇ヨハネス22世はそれを否定した。オッカムは修道会の総長ミカエルに頼まれて教皇の文書を読み、教皇のほうこそ誤っていると結論した。

1328年5月、オッカムはミカエルらとともに夜、アヴィニョンを抜け出し、教皇と争っていた神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世のもとへ逃れた。皇帝よ、剣で私を守ってほしい、私はペンであなたを守ろう、と言ったという話は有名だが、後世の伝えとされる。破門されたオッカムは、その後20年近くミュンヘンで暮らし、教皇の権力は霊的な事柄に限られる、皇帝の権力は教皇から授かるものではない、教皇も公会議も誤りうる、と論じる政治の書を書き続けた。1347年ごろミュンヘンで没した。黒死病がヨーロッパを襲い始めたころで、その犠牲になったとする説もあるが、確かではない。
剃刀の原則は、その後の学問の道具になった。アイザック・ニュートンは『プリンキピア』の中で、自然の物事の原因は、真実でかつ説明に足りるもの以上を認めるべきではない、と推論の規則を掲げている。ただし、剃刀は真理を保証するものではない。単純な説明が正しいとは限らず、あくまで、同じように説明できるなら仮定の少ないほうから試せ、という選び方の目安である。神学者が神の全能を守るために振るった剃刀は、いまでは科学者が仮説を選ぶときの道具として使われている。