概要
0と1だけで、すべての数を書く。ライプニッツは1679年頃からこれを考え、1703年に論文として発表した。彼はイエズス会士から送られた『易経』の六十四卦の配列を見て、陰と陽が0と1に対応することに気づき、古代中国が同じ体系を持っていたのだと考えた(この解釈は現在では否定されている)。彼にとって二進法は、無(0)から神(1)がすべてを創る象徴でもあった。実用になるのは、電気の入切で計算する機械が現れてからである。
場所
52.37°N 9.74°E · ドイツ
関わった人(1)
ゴットフリート・ライプニッツAD1646年7月1日–AD1716年11月14日 · 書いた本文
0と1だけで数を書く。
2進法そのものは、ライプニッツの発明ではない。古代エジプトの掛け算(倍加法)にも、インドの韻律学(ピンガラ、前3〜2世紀)にも、中国の易にも、それに近いものがある。ハリオットやカラミュエルも17世紀に触れている。
しかし、体系として書き、意味を与えたのは彼である。
**着想**。1679年3月、彼は「二進法算術について」という短い草稿を書いた。33歳。
そこで彼は、加減乗除の規則を示し、そして機械を構想した。
「容器に穴を開け、開いたり閉じたりできるようにする。1のところは開き、0のところは閉じる。開いた穴から玉が落ち、閉じたところでは落ちない」。
玉の落下で計算する機械。作られなかったが、原理は現代の計算機と同じである。
**なぜ2進か**。彼にとって、これは実用の話ではなかった。当時、10進の機械式計算機を作っていた彼が、計算のために2進を使う理由はない(桁数が3倍以上になる)。
理由は、**形而上学**だった。
すべての数が、0と1だけから作られる。**無**(0)と**一なるもの**(1)。
彼はこれを、創造の象徴と見た。神(1)が、無(0)から、すべてを創る。
彼は書いている。「1が神を、0が無を表すとすれば、この体系は、創造の最も美しい表象を与える」。
彼は、この着想を記念のメダルにして、皇帝に献上することまで考えた。図案には「無から万物を(Omnibus ex nihilo ducendis sufficit unum)」と刻む。
**易経**。
1697年から、ライプニッツは北京にいたイエズス会士**ジョアシャン・ブーヴェ**と文通していた。
1701年、彼はブーヴェに二進法の説明を送った。
1703年4月、ブーヴェから返事が来た。同封されていたのは、**伏羲の六十四卦の配列図**(邵雍の「先天図」)。
陰の爻(⚋)と陽の爻(⚊)の組み合わせが6段。それが64通り。
ライプニッツは、陰を0、陽を1と読んだ。すると、その配列は、0から63までの二進数の順序と、正確に一致した。
彼は驚喜した。**古代中国が、二進法を知っていた**。しかし、その意味は失われ、後世は占いの道具としてしか使っていない——。
彼は1703年、パリの科学アカデミーに論文を提出した。「0と1の記号のみを用いる二進法算術の解説。その効用と、それが伏羲の古代中国の図に与える光について」。
**この解釈は、現在では否定されている**。
邵雍の配列(11世紀)は、易の伝統的な配列ではなく、彼自身の哲学的な整理である。そして、その配列が二進の順序と一致するのは、二元の要素を体系的に並べれば自然にそうなるからで、中国側に「位取りの数として読む」意識はなかった。
ライプニッツは、自分の発見の正当性を、古代の権威で裏づけたかった。そして、中国とヨーロッパの知が根底で一致するという、彼の生涯の希望に合致していた。
(彼は中国に強い関心を持ち続けた。『中国最新事情』〈1697年〉を編纂し、ヨーロッパは中国から実践的な道徳を、中国はヨーロッパから理論科学を学ぶべきだ、と書いた。)
**その後**。
二進法は、200年以上、実用にならなかった。
1854年、**ジョージ・ブール**『思考の法則の研究』。論理の演算を、0と1の代数として書いた。
1937年、**クロード・シャノン**の修士論文。「継電器とスイッチ回路の記号的解析」。電気のスイッチの直列・並列が、ブール代数の AND と OR に対応する。だから、電気回路で論理演算ができる。だから、電気回路で計算ができる。
(この修士論文は、しばしば「20世紀で最も重要な修士論文」と呼ばれる。)
1937〜42年、アタナソフとベリー。1941年、ツーゼの Z3。1945年、ノイマンの「EDVAC報告書の第一草稿」。
以後、すべての計算機が2進で動いている。
ライプニッツが「無から万物を」と刻もうとしたメダルは、作られなかった。