家事労働に賃金を
概要
1972年、パドヴァで国際フェミニスト連合が結成され、この要求が掲げられた。マリアローザ・ダラ・コスタとセルマ・ジェイムズ。主張は素朴に見えて、鋭い。家事は愛の行為とされ、報酬がない。しかし、それがなければ労働者は明日、工場へ行けない。つまり、資本は、無償の労働の上に立っている。運動の内部でも論争になった。賃金を払えば、女性を家に固定するのではないか。運動は賃金そのものより、見えない労働を可視化する言葉として残った。
場所
45.41°N 11.88°E · イタリア・ヴェネト州
本文
家事は労働だろうか。もし労働なら、なぜ報酬が無いのか。1970年代の初め、この問いをまっすぐに突きつけたのが「家事労働に賃金を」という運動である。
それまでの女性運動の主な要求は、参政権、教育を受ける権利、働く機会、男女同一の賃金だった。どれも、家の外の公の世界へ女性が入っていくことを求めるものである。1960年代から70年代にかけての第二波フェミニズムは、そこに家の内側を争点として持ち込んだ。1963年にベティ・フリーダンが出した『新しい女性の創造』は、家も車も夫も子もそろった郊外の主婦が抱える、名前のない不満を描き、外で働くことに出口を見た。ところがこれには、別の側から批判が出た。外で働いても家事は消えない。女性は仕事を二つ抱えることになるだけだ、というのである。のちに社会学者アーリー・ホックシールドが『セカンド・シフト』(1989年)で、共働きの夫婦の時間の使い方を調べ、妻が家に帰ってからもう一つの勤務をこなしている実態を示した。
1972年、イタリアのパドヴァで国際フェミニスト連合という集まりが生まれた。中心にいたのは、パドヴァ大学のマリアローザ・ダラ・コスタと、アメリカ生まれでイギリスに住むセルマ・ジェイムズである。ジェイムズはトリニダード出身の思想家C・L・R・ジェームズの妻でもあった。イタリア出身でアメリカに渡ったシルヴィア・フェデリーチらも加わった。同じ年、ダラ・コスタとジェイムズは小冊子『女性の力と共同体の転覆』を出し、運動の理論の柱とした。掲げた要求が、家事労働に賃金を、である。
彼女たちの論理は、素朴に見えて鋭い。食事を作り、掃除をし、洗濯をし、子を育て、老いた親の世話をする。家の外で人を雇ってやらせれば賃金が発生する仕事を、家の中でやれば一銭にもならない。中身は同じである。それは愛の行為と呼ばれてきたが、内容は労働だ、と彼女たちは言った。
さらに一歩進んで、この無償の労働こそが経済を支えていると主張した。労働者が明日も工場に行けるのは、誰かが食事を作り、服を洗い、休ませているからである。カール・マルクスの経済学はこれを労働力の再生産と呼んだ。しかしマルクスは、その再生産の場で実際に働いている人のことを、ほとんど論じなかった。そこで働いているのは主に女性であり、しかも無償である。資本は賃金を払って労働を買うが、その労働力を毎日作り直している労働には何も払っていない。
賃金が無いことは、単に金が入らないというだけではない、とも彼女たちは考えた。賃金は、それが労働であると社会が認めるしるしでもある。払われないから労働に見えず、労働に見えないから払われない。この循環を断ち切るために、あえて賃金を要求する。フェデリーチは1975年の小冊子で、賃金を求めるのは家事を引き受けるためではなく、それを拒めるようになるためだ、という趣旨を書いている。運動の要求は、国が主婦に給料を払う制度の提案というより、家事を見えるものにするための挑発だった。なぜ払われないのか、と問うことで、それが労働であることがはじめて議論の場に上る。
この要求は、運動の内部でも激しい論争を呼んだ。賃金を払えば、女性を家に縛りつけることにならないか。社会主義の立場に立つフェミニストの多くはそう考え、必要なのは賃金ではなく、公的な保育所や給食、共同の洗濯場、そして男性が家事を分担することだと主張した。ソ連や東欧、北欧の国々は、程度の差はあれ、この家事の社会化の方向を取った。性別による役割の分け方を前提にしているという批判もあり、財源をどうするのか、誰の何をどう測るのか、という実務の面からの疑問も多かった。
パドヴァでこの要求を掲げたのは、ダラ・コスタらが前年に作った女性だけの集まりで、イタリア語で「女性の闘争」を意味する名を名のっていた。ダラ・コスタは、工場の労働者の自律を説くイタリアの急進的な左派の運動から出てきた人で、その理論を家庭に当てはめた。工場の外にある家庭もまた、資本のための生産の場だという見方である。この発想が、運動に独特の鋭さを与えた。
運動は各地に広がった。1973年にはイギリスでジェイムズが委員会を作り、ニューヨークやトロントなどにも同じ名の集まりができた。直接の運動ではないが、同じ問いを社会全体に突きつけた出来事として、1975年10月24日のアイスランドの女性の休日がある。アイスランドの女性の9割が、その日一日、勤めにも家事にも出ず、街に集まった。学校や工場や店が止まり、父親たちは子どもを職場に連れて行った。5年後の1980年、アイスランドはヴィグディス・フィンボガドゥティルを大統領に選んだ。民主的な選挙で選ばれた世界で最初の女性の国家元首である。
家事に賃金を払う制度を作った国は無かった。児童手当や育児休業の給付、家族を介護する人への手当のように、一部を支えるしくみは各国で整っていったが、家事労働への賃金として設計されたものではない。運動は、制度としては実現しなかった。
残ったのは、言葉と見方である。再生産労働、無償労働、ケア労働といった言葉が広く使われるようになった。ホックシールドは『管理される心』(1983年)で、客室乗務員が笑顔を作ることも仕事の一部として求められていると論じ、感情労働という言葉を広めた。フェデリーチはのちに『キャリバンと魔女』(2004年)で、近世ヨーロッパの魔女狩りを、女性を無償の再生産労働へ囲い込む過程として読み解いた。
1995年に北京で開かれた第4回世界女性会議の行動綱領には、無償労働を測り、国の統計に反映させることが盛り込まれた(無償労働を数える)。日本でも内閣府が、家事や育児、介護といった無償の労働を金額に換算した推計を公表している。家の中の労働を数えようという流れは、いまでは多くの国の時間の使い方の調査や、国民経済計算の補助の勘定に生きている。パドヴァの小さな集まりが掲げた要求は、払われない労働を見えるようにする言葉として、半世紀後の議論の中にも残っている。