マハーヴィーラ
概要
釈迦とほぼ同時代の王族が、30歳で出家して12年苦行した。あらゆる生き物を傷つけないことを徹底する教えを説く。ジャイナ教の第24代の祖師とされる。
関わったできごと(2)
マハーヴィーラの教えBC6〜BC5世紀 · 説いたマハーヴィーラの入滅BC468年頃 · 説いた本文
本名はヴァルダマーナ。ガンジス川の北、いまのビハール州にあったヴァイシャーリーの近く、クンダグラーマの生まれとされる。この地方は、王を置かず有力な氏族の長たちが合議で治めるヴァッジ国の連合に属していた。父シッダールタはジュニャートリ族の長、母トリシャラーはヴァイシャーリーの有力者の娘だったと伝えられる。マハーヴィーラ(偉大な英雄)は、のちに弟子たちが付けた尊称である。

生没年は、ジャイナ教の伝統ではBC599年からBC527年とされる。だが学者の多くはもう少し遅く、BC540年ごろからBC468年ごろとみる。仏典は、彼をゴータマ・シッダールタと同時代の人として描いており、二人は同じ地方で、同じ王たちの庇護を受けながら教えを説いていた。仏典では、彼はニガンタ・ナータプッタ(ナータ族の子、束縛を離れた者)と呼ばれ、釈迦と並ぶ有力な思想家「六師」の一人に数えられている。
時代の背景がある。BC6世紀からBC5世紀のガンジス流域では、都市と交易が育ち、ウパニシャッドの成立の思想が広まる一方で、生まれによる身分と動物の犠牲を伴うバラモンの祭式への疑問が強まっていた。家を捨て、遊行しながら真理を求める出家者が大勢いた。マハーヴィーラも釈迦も、そうした流れの中にいた。

若いころについては、宗派によって伝えが違う。ジャイナ教の二大宗派のうち、白衣派は、彼が結婚して娘をもうけたと伝える。もう一つの裸行派は、生涯独身だったとする。いずれの伝えでも、両親が亡くなったあと、30歳で家を出た。財産を人々に分け与え、髪を手で引き抜いて出家したという。
それから12年あまり、苦行を続けた。13か月目には身に着けていた一枚の衣も捨て、裸で歩いたと伝えられる。家を持たず、雨季のほかは一か所に長くとどまらなかった。食は乞い受けたものだけで、長く断食することも多かった。村人に打たれ、犬をけしかけられても、抵抗しなかったと伝える。

42歳ごろ、川のほとりの木の下で、完全な知に達したとされる。ジャイナ教ではこれをケーヴァラ(独存の知)と呼ぶ。彼はジナ(煩悩に打ち勝った者)となり、その教えに従う者がジャイナと呼ばれるようになった。
それから約30年、ガンジス流域を巡って教えを説いた。ジャイナ教によれば、彼は新しい宗教を開いたのではない。はるか昔から続く24人の祖師(ティールタンカラ)の最後の一人である。23代目のパールシュヴァはBC8世紀ごろの実在の人物とみる学者もおり、マハーヴィーラはその教団を受け継いで改めた、と考えられている。伝えでは、パールシュヴァの4つの誓いに、性の交わりを断つ誓いを加えて5つにした。

教えの核は、アヒンサー(不殺生)である。人や獣だけでなく、虫にも、草木にも、水や土や火や風にさえ、命が宿っている。命を傷つければ、業という微細な物質が魂にこびりつき、魂を重くして輪廻に縛りつける。苦行は、すでについた業を焼き払い、新しい業を寄せつけないための方法だった。出家者が道を掃きながら歩き、口を布で覆うのは、虫を踏んだり吸い込んだりしないためである。
在家の信者にも、できるかぎり命を傷つけない暮らしが求められた。土を耕せば虫を殺すので、農業は避けられた。そのため信者は商業や金融に多く就き、ジャイナ教徒はインドの商人層として大きな富と影響力を持つようになった。

もう一つ、後世ジャイナ教の特徴とされるのが、アネーカーンタヴァーダ(ものごとは一つの見方では語りつくせないという考え)である。真理はいくつもの面を持ち、どの立場もその一面しか捉えていない。盲人たちが象の別々の部分を触って言い争う話は、この教えの譬えとして用いられる。この考えが教理として体系化されたのはマハーヴィーラより後の時代だが、その根は彼の説法にあるとされる。
72歳ごろ、パーヴァーという町で亡くなった。ジャイナ教では、これを輪廻からの完全な解放、ニルヴァーナとみなす。この夜に人々が灯をともしたことが、秋の灯明祭ディーワーリーの由来の一つだと伝えられ、ジャイナ教徒はこの日を彼の入滅の日として祝う。

彼の教えは、弟子たちによって口で伝えられ、文字にまとめられたのは数百年後のことだった。その過程で教団は白衣派と裸行派に分かれ、聖典の範囲も宗派によって違う。インドの国勢調査では、いまもおよそ450万人がジャイナ教徒である。人口のわずかな割合にすぎないが、不殺生の思想はヒンドゥー教にも影響を与え、20世紀にはガンディーの非暴力の背景の一つになった。