授時暦
概要
大都に天文台を建て、全国27か所で観測して作った暦。1年を365.2425日とする。同じ値をヨーロッパが採るのは300年後のグレゴリオ暦になる。
場所
39.90°N 116.41°E · 中国
関わった人(2)
郭守敬AD1231年–AD1316年 · 編纂フビライ・ハンAD1215年–AD1294年 · 命じた本文
暦は、皇帝が天の時を人々に知らせるためのものだった。種をまく日、税を集める日、祭りの日、すべてが暦で決まる。日食や月食を言い当てられない暦は、天命が揺らいでいるしるしと受け取られかねない。王朝が替わると暦を改めるのが中国の習いで、それは天文学であると同時に政治だった。
元が南宋の都を落とした1276年、フビライ・ハンは暦を改めるよう命じた。それまで使われていた金の暦は、日食の予報がずれるようになっていた。事業には儒学者の許衡、数学に優れた王恂、そして郭守敬が加わった。郭守敬は水利の技術者として名を上げた人で、機械と測量に強かった。
郭守敬がまず手がけたのは、観測機器を作り直すことだった。それまでの渾天儀は、天の赤道や黄道を表す環が何重にも組み合わさり、環どうしが視線を遮って測りにくかった。彼はこれを分解し、必要な環だけを独立した台に載せた簡儀を作った。構造が簡素になったぶん、目盛りを細かく刻め、誤差が出にくくなった。
影の長さを測る圭表も大きくした。従来の8尺の柱を40尺に伸ばし、柱の先に横棒を渡して、地面に落ちる影の端を、小さな穴を通した光で鋭く写し取る工夫を加えた。柱が高いほど影は長くなり、冬至や夏至の日をわずかな差まで読み取れる。河南の登封には、このとき造られた観星台が今も残っている。

観測は都の大都だけでは足りない。北極星の高さも昼の長さも、場所によって違う。そこで全国27か所に観測所を置き、同じ方法で測らせた。南は南シナ海、北はモンゴル高原のさらに北まで及んだと伝わる。帝国が広大だったからこそできた観測で、緯度による差を実際の数字で押さえることができた。
こうして1280年に新しい暦がまとまり、翌1281年から使われた。名は授時暦。天の時を人に授ける、という意味になる。
この暦は1年の長さを365.2425日とした。現在の値との差は26秒ほどしかない。同じ値をヨーロッパが採るのは、300年後の1582年のグレゴリオ暦への改暦になる。授時暦はまた、遠い昔の暦の起点からの年数を延々と積み上げる、それまでの中国の暦の計算法をやめ、近い時点を起点にして実測の値で組み立てた。太陽や月の不規則な動きを補うために、細かな数の表を補間する計算法も用いている。
精密な暦は、授時暦が最初ではない。200年ほど前の1079年、セルジューク朝のもとで詩人としても知られるウマル・ハイヤームらが作ったジャラーリー暦も、1年の長さを驚くほど正確に測っていた。ユーラシアの東西で、天を測る技術はそれぞれに磨かれていた。授時暦が際立つのは、帝国の端から端までの実測を積み上げ、それを数百年使われ続ける暦の制度に仕立てた点にある。
授時暦は元の滅亡で終わらなかった。明は名を大統暦と改めたが、中身はほぼそのまま使い続けた。授時暦と大統暦をあわせると、明が滅ぶ1644年まで360年あまり、同じ骨組みの暦が中国の時を刻んだことになる。朝鮮でもこの暦をもとに自国の暦が作られている。
日本では、江戸時代の渋川春海が授時暦を学び、日本と中国の経度の差を考えに入れて手直しした暦を作った。これが1684年に採用された貞享暦で、日本人の手による初めての暦とされる。それまで日本は、平安時代に唐から入れた宣明暦を800年あまり使い続け、暦と実際の天のずれが2日に達していた。授時暦は、海を越えてそのずれを正す手がかりにもなった。
授時暦を支えたのは、大きな帝国の力と、イスラーム世界の天文学との接点だった。フビライの宮廷にはペルシアの天文学者も仕え、別に回回司天台という役所があった。授時暦がどこまでイスラームの知識を取り入れたのかは研究者の間でも見方が分かれ、郭守敬の機器には中国の伝統の延長として説明できる部分が多い。ただ、異なる伝統が同じ都で天を測っていたことは確かで、それが元という王朝の特徴でもあった。