人物

杉田玄白

Sugita Genpaku
AD1733年10月20日 – AD1817年6月1日(享年83)
小浜藩重要度 5

概要

小浜藩医。オランダ語はほとんど読めなかった。小塚原の腑分けで『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚き、翌日から翻訳。前野良沢が読み、玄白が日本語にした。3年半で『解体新書』。良沢は不完全だと名を出さず、玄白が出した。晩年、『蘭学事始』で「櫓も舵もない船で大海に出たようだった」と回想した。85歳。

関わったできごと(1)

『解体新書』AD1774年(安永3年) · 訳した

本文

1733年、江戸の牛込にあった若狭の小浜藩の屋敷で、藩医の家に生まれた。母は出産のときに亡くなった。家は代々、オランダ流の外科を伝える医者の家だった。玄白も漢学を学ぶ一方で、幕府の医官西玄哲のもとでオランダ流の外科を修めた。

杉田玄白の肖像
杉田玄白の肖像Wikimedia Commons Ishikawa Tairō · Public domain

当時、日本はオランダと中国とだけ、長崎で限られた交易をしていた(鎖国の完成)。西洋の医術は、長崎の通詞(通訳)や、オランダ商館の医師から断片的に伝わるだけだった。8代将軍徳川吉宗が1720年に、キリスト教に関わらない漢訳の洋書の輸入を許してから、西洋の学問への関心は少しずつ高まっていた。

玄白は20代で藩医となり、やがて日本橋に開業した。オランダ語を学ぼうと思ったこともあったが、オランダ商館の一行が江戸に来たときに通詞に相談すると、言葉を学ぶのは長崎で一生をかけても難しい、江戸にいてはとても無理だと言われ、あきらめたという。

『解体新書』(複製)。国立科学博物館の展示。
『解体新書』(複製)。国立科学博物館の展示。Wikimedia Commons The original uploader was PHG at English Wikipedia . · Public domain

転機は1771年に訪れた。同じ小浜藩の医師中川淳庵が、オランダ商館の一行が売りに出したという解剖学の本を持ってきた。ドイツの医師クルムスの解剖書をオランダ語に訳したもので、日本では『ターヘル・アナトミア』の名で知られる。玄白は文字は読めなかったが、精密な解剖図に目を奪われ、藩に頼んで買ってもらった。

ちょうどそのころ、江戸の町奉行所から、翌日に小塚原の刑場で刑死者の腑分け(解剖)があるという知らせが届いた。明和8年3月4日(1771年4月)、玄白は、同じ本を長崎で手に入れていた中津藩の医師前野良沢、中川淳庵らとともに小塚原に出かけた。刑死したのは50歳ほどの女性で、執刀したのは、熟練の90歳になる老人だった。老人が取り出して見せる臓器を、本の図と見比べた。肺も肝臓も腸も、本の図とぴったり同じだった。漢方の医学書が描いてきた五臓六腑の図とは、まるで違っていた。

『蘭学事始』明治2年刊。
『蘭学事始』明治2年刊。Wikimedia Commons Wolfgang Michel · CC0

帰り道、三人は語り合った。医者でありながら、自分の仕える体の本当の姿も知らずにいたのは恥ずかしいことだ。この本を訳して、日本の医学に役立てようではないか。翌日、三人は良沢の家に集まり、翻訳を始めた。

それは、玄白が後に、櫓も舵もない船で大海に乗り出したようだった、と振り返った作業だった。辞書もなく、文法も分からない。オランダ語をいくらか知っているのは、長崎で学んできた良沢ひとりだった。良沢がオランダ語の文を読み解き、玄白はそれを、意味の通る日本語の文章にまとめることに力を注いだ。春の長い日に一日かけても、一行の意味が分からないことがあったという。玄白は、顔の部分の説明に出てきた「フルヘッヘンド」という語の意味を何日も考え、木の枝を切った跡が盛り上がる、という用例から「うずたかい」の意味だと突き止めた、と書いている。ただし、もとの本の鼻の項にはこの語が見当たらないと指摘されていて、細部は記憶違いかもしれない。月に6、7回集まり、原稿は11回書き直された。

杉田玄白の肖像画
杉田玄白の肖像画Wikimedia Commons Emma Dyer (took photograph) Author of the text in which the drawing is found is Norton Willis Whitney · CC0

日本語に言葉そのものが無いものも多かった。玄白たちは、新しい言葉を作った。「神経」「軟骨」「動脈」などは、このときに生まれたり、広まったりした訳語である。

良沢は完璧を求め、まだ十分に分からないところがあるとして慎重だった。玄白は、翻訳を急いだ。自分は病弱で、いつ死ぬか分からない。それに、誰かが先に同じことをするかもしれない。不完全でもまず世に出せば、誤りは後の人が正してくれる、と考えた。

出版には危険もあった。異国の本を訳して出せば、幕府に禁じられ、罰を受けるかもしれない。玄白は、1773年に、まず解剖図と簡単な説明だけを載せた『解体約図』を出して、世間と幕府の反応を見た。そして1774年、翻訳を始めてから3年半ほどで『解体新書』を刊行した(『解体新書』)。その前に、つてを頼って将軍や公家たちに本を献上し、お墨付きを得る手を打っていた。

『解体新書』に関わる図版:Kaitai shinsyo01
『解体新書』Wikimedia Commons Babi Hijau · Public domain

本の訳者の欄には、杉田玄白の名が記されたが、前野良沢の名は無かった。良沢は、訳がまだ不完全だとして自分の名を出すことを断ったと言われる。翻訳の中心はオランダ語を読んだ良沢だったため、後の世には、玄白が手柄を独り占めしたかのように言う人もいる。だが玄白自身は、後年、良沢がいなければこの仕事はできなかったと、その功績を書き残している。

『解体新書』の刊行の後、玄白は自分では大きな翻訳をしなかった。代わりに私塾の天真楼で弟子を育て、医者としての仕事に励んだ。評判は高く、診る患者は多く、暮らしは豊かになった。弟子の大槻玄沢は、玄白と良沢の両方の名から一字ずつ取った名で知られ、オランダ語の入門書『蘭学階梯』を書いた。宇田川玄随は西洋の内科書を訳した。蘭学は、玄白の周りから大きく育っていった。玄白は随筆や記録も残し、天明の飢饉のころの江戸の世相や打ちこわしの様子を書き留めている。

天明の飢饉に関わる図版:Great Tenmei Famine Map Artwork
天明の飢饉Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1815年、83歳の玄白は、40年あまり前の苦労を振り返って『蘭学事始』を書き、弟子の大槻玄沢に託した。小塚原の腑分けの朝、翻訳の始まり、言葉一つに何日も悩んだ日々が、生き生きと描かれている。この原稿は長く写本で伝わるだけで、広く知られなかった。幕末、写本が古本屋の店先で見つかり、それを読んだ福沢諭吉は、先人の苦労を思って涙を流したという。福沢らの手で、1869年に刊行された。

晩年の玄白は、九つの幸せに恵まれたとして「九幸」と号した。平和な世に生まれたこと、長生きしたこと、子孫に恵まれたことなどを数えたものである。医の道は自然に及ばない、という言葉を残したとも伝えられる。1817年、江戸で亡くなった。数えで85歳だった。

死体を解剖する様子(杉田玄白の記録より)
死体を解剖する様子(杉田玄白の記録より)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

『解体新書』の訳には誤りも多く、後に大槻玄沢が全面的に改訳した。それでも、日本人が初めて西洋の学問の本を自分たちの手で丸ごと訳したことの意味は大きかった。書物を通じて西洋の学問を学ぶという道は、ここから開け、幕末から明治の近代化へとつながっていく。

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