できごと

イギリスの金本位制

Britain adopts the gold standard
AD1816年
重要度 5
ロシア帝国大英帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国デンマークスウェーデン=ノルウェーオーストリア帝国エジプトスペインフランスモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1816年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1816年の版図を描いています(22勢力)。

概要

長く、銀と金の両方が貨幣だった。ニュートンが造幣局長だった1717年、金と銀の交換比率を定めたところ、金を高く評価しすぎて銀が国外へ流出し、事実上の金本位になった。ナポレオン戦争の間、兌換は停止された。1816年の貨幣法で金を唯一の本位と定め、1821年に兌換を再開した。1870年代、ドイツ、アメリカ、北欧などが続き、日本も1897年に加わって、世界の通貨が金で結ばれた。為替が安定し、貿易と投資が国境を越えた。同時に、各国は金の量に縛られた。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

十八世紀まで、ヨーロッパの多くの国では金と銀の両方が法律上の貨幣だった。複本位制と呼ばれる仕組みである。この仕組みには弱点があった。法律で金と銀の交換比率を決めても、市場の相場は日々動く。法定の比率で安く見積もられたほうの金属は、溶かして地金として売るか、外国へ持ち出したほうが得になる。こうして割安な貨幣は市中から消えていく。悪貨は良貨を駆逐するという、いわゆるグレシャムの法則である。

イングランドでこの問題に向き合ったのが、アイザック・ニュートンだった。1696年に王立造幣局の監事となり、のちに長官に就いた。ニュートンはこの職を名誉職とは考えず、偽金作りを熱心に追い、自ら証人を尋問して証拠を集めた。名うての偽造者ウィリアム・チャロナーを絞首台に送ったのもこの時期である。

スカンディナヴィア貨幣同盟の20クローネ金貨(スウェーデンとデンマーク)
スカンディナヴィア貨幣同盟の20クローネ金貨(スウェーデンとデンマーク)Wikimedia Commons Anonimski · CC0

1717年、ニュートンは金と銀の比率を検討し、その報告をもとにギニー金貨の価値は21シリングと定められた。ところがこの値は、市場の相場に比べて金を高く評価しすぎていた。銀で払うより金で払うほうが得になり、銀貨は溶かされて国外へ流れた。銀は銀を高く評価するインドや中国へと吸い込まれていった。こうしてイングランドは、法律の上では複本位のまま、事実上は金だけが流通する国になった。ニュートン自身がこの結果をどこまで意図していたかは、議論が分かれている。

1793年からフランス革命戦争、続いてナポレオン戦争が始まり、イギリスは長い戦いに入った。1797年、フランス軍上陸の噂が広がると人々が銀行に殺到し、イングランド銀行の設立の金が底をつきかけた。政府は銀行券を金に換えることを停止させた。以後二十年あまり、イギリスは金と換えられない紙幣で戦争を戦うことになる。

金証券(1882〜1933年に米国で使われた紙幣)
金証券(1882〜1933年に米国で使われた紙幣)Wikimedia Commons National Museum of American History · Public domain

物価は上がり、その原因をめぐって論争が起きた。1810年、議会の地金委員会は、物価の上昇は銀行券の出しすぎによるものであり、金との兌換を再開すべきだと報告した。この立場を理論の面から強く支えたのが、株式の仲買で財を成した後に経済学者となったデイヴィッド・リカードである。反対する側は、物価の上昇は戦争と不作のせいであり、兌換を急げば経済が締めつけられると主張した。議会はこのとき、報告を退けた。

戦争が終わった翌年の1816年、貨幣法が制定された。金を唯一の本位とし、1ポンドのソブリン金貨を発行する。銀貨は、額面より少ない銀しか含まない補助の貨幣に格下げし、少額の支払いにしか使えないものとした。溶かしても割に合わないので、銀貨はもう国外へ消えない。1821年には銀行券と金の兌換が再開され、1ポンドの紙幣を持っていけば金貨と換えられるようになった。ただし、通貨の価値を戦争前の水準に戻すためには物価を下げなければならず、その引き締めは戦後の不況と社会の不安を深めた。1819年、マンチェスターで集会の群衆に騎兵が突入したピータールーの虐殺は、この時期の困窮を背景にしている。

カリフォルニア・ゴールドラッシュで大量に鋳造された20ドル金貨(1849年)
カリフォルニア・ゴールドラッシュで大量に鋳造された20ドル金貨(1849年)Wikimedia Commons US Mint (coin), National Numismatic Collection (photograph by Jaclyn Nash) · Public domain

1844年のピール銀行条例は、イングランド銀行を、紙幣を出す部門と、ふつうの銀行業務の部門に分けた。紙幣は、一定額の国債を裏付けとする分を除き、手元の金の量に応じてしか発行できない。規律は厳しかったが、1847年、1857年、1866年の恐慌のたびに条例は一時停止された。厳格な規則は、危機には耐えられなかったのである。

イギリスは十九世紀の世界でもっとも豊かな貿易と金融の国だった。ロンドンで金と結ばれたポンドは、世界の取引の物差しになっていく。そして1870年代、各国が雪崩を打って金本位へ移った。きっかけはドイツである。1871年に普仏戦争に勝ったドイツは、フランスから五十億フランの賠償金を受け取り、それを元手に金本位の新しい通貨マルクを導入した。手放した銀を市場に売ったため、銀の値段が大きく下がった。銀を本位とする国や複本位の国は、価値の下がる銀を抱えていられなくなった。アメリカは1873年の貨幣法で銀貨の自由な鋳造をやめ、銀の生産者や農民はこれを「1873年の犯罪」と呼んで、以後二十年あまり政治の争点になった。フランス、ベルギー、イタリア、スイスのラテン通貨同盟も銀の自由鋳造を止め、北欧の国々も金に移った。日本は日清戦争の賠償金をロンドンで受け取り、それを準備として1897年に金本位制を始めた。同じ年にロシアが続き、アメリカは1900年に金本位を法律に明記した。

日清戦争に関わる図版:旅顺海军公所
日清戦争Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

もっとも、各国の中央銀行が実際に金貨を積み上げて取引していたわけではない。世界の貿易の決済の多くはロンドンで、ポンド建ての手形によって行われていた。金本位制とは、実のところ、ロンドンを中心にしたポンドの体制でもあった。

こうして二十世紀の初めには、世界の主な国の通貨が金で結ばれていた。それぞれの通貨が金の一定量に固定されれば、通貨どうしの交換比率も固定される。為替の危険を気にせずに物を売り買いし、外国へ資金を投じることができた。政府が勝手に紙幣を刷ることもできない。1870年から1914年にかけて、世界の貿易と資本の移動は、それまでにない規模に広がった。

1898年のロシア・ルーブル紙幣(金との交換率を記載)
1898年のロシア・ルーブル紙幣(金との交換率を記載)Wikimedia Commons the State Bank of the Russian Empire · Public domain

代わりに、国は自分の都合で金融を動かす自由を失った。金が国外へ流れ出せば、不況で失業が増えていても、金利を上げて通貨を締めるしかない。のちに、為替の固定、資本の自由な移動、自国の判断による金融政策の三つは同時には持てないと整理されることになる仕組みである。しかも金の産出が経済の成長に追いつかなければ、物価は下がり続ける。1873年から1890年代半ばまで、世界的に物価が下がる時代が続き、借金を抱えた農民が苦しんだ。1896年のアメリカ大統領選挙では、民主党のウィリアム・ジェニングズ・ブライアンが、人類を金の十字架にかけてはならないと演説して金本位制を攻撃したが、選挙には敗れた。

1914年、第一次世界大戦が始まると各国は兌換を停止した。戦後、イギリスは1925年に戦前と同じ比率で金本位に戻った。このときの大蔵大臣はチャーチルで、ジョン・メイナード・ケインズは、ポンドを高く固定しすぎて輸出を殺すと厳しく批判した。1929年からの恐慌の中で、イギリスは1931年9月に金本位を離れ(金本位制の崩壊)、アメリカは1933年、フランスは1936年に続いた。後の経済史の研究は、金本位を早く離れた国ほど恐慌からの回復が早かったことを示している。金のつながりが恐慌を世界へ伝え、各国が手を打つのを妨げていたのである。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

第二次大戦後のブレトン・ウッズ会議では、ドルだけを金と結び、ほかの通貨をドルに固定する仕組みが作られた。それも1971年、アメリカがドルと金の交換を止めたことで終わった(金とドルの交換停止)。いま、金と換えられる通貨はどこにもない。貨幣の価値を支えているのは金属ではなく、それを出す国家と中央銀行への信頼である。金本位に戻るべきだという声はいまもあるが、それは、十九世紀の規律と引き換えに十九世紀の窮屈さも取り戻すことを意味している。

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