中距離核戦力全廃条約

概要
射程500から5500キロのミサイルを、米ソが全部壊す。2692基。初めて核兵器の「削減」でなく「全廃」。レーガンは「信頼せよ、だが検証せよ」とロシアの諺を言い、ゴルバチョフが「毎回それを言う」と笑った。2019年、アメリカが離脱した。
場所
38.91°N -77.04°E · アメリカ合衆国
関わった人(2)
ロナルド・レーガンAD1911年2月6日–AD2004年6月5日 · 署名ゴルバチョフAD1931年3月2日–AD2022年8月30日 · 署名本文
1970年代の半ば、米ソは戦略核兵器を制限する交渉を重ね、緊張を和らげる時期にあった。その裏で、1976年から、ソ連は射程がおよそ5000キロの新しい中距離の核ミサイルSS-20を、ソ連の西部に配備しはじめた。車両に載せて動かせ、一発に三つの核弾頭を積む。アメリカ本土には届かないが、西ヨーロッパの都市を数分で狙える。1977年、西ドイツの首相シュミットは講演で、この不均衡に警告を発した。アメリカが、ヨーロッパのために自国の都市を危険にさらしてまで核で報復するだろうか。ヨーロッパがアメリカから切り離されることを、ヨーロッパの指導者たちは恐れた。
1979年12月、NATO(NATOの結成)は「二重決定」を下した。ソ連に中距離ミサイルの撤去を求めて交渉する。交渉がまとまらなければ、1983年から、アメリカの中距離弾道ミサイルのパーシングIIと地上発射の巡航ミサイルを、西ヨーロッパに配備する。1981年、大統領に就いたロナルド・レーガンは、ソ連がSS-20を撤去すればアメリカも配備をやめるという「ゼロ・オプション」を示したが、ソ連は応じなかった。

1980年代のはじめ、西ドイツ、イギリス、オランダ、イタリアなどでは、配備に反対する数十万人規模の集会が繰り返し開かれた。ヨーロッパが米ソの核戦争の戦場にされることへの恐れが、人々を街頭へ向かわせた。イギリスのグリーナム・コモンの基地の外では、女性たちが野営を始め、その抗議は何年も続いた。交渉は実らず、1983年の秋、ミサイルの配備が始まった。ソ連の代表団は交渉の席を立った。この年の秋は、NATOの演習を本物の攻撃の準備とソ連が疑い、緊張が高まった時期でもあった。
流れを変えたのは、1985年にソ連の書記長になったゴルバチョフだった。軍事費の重荷に苦しむ経済を立て直すため、彼は軍縮に踏み出した。1986年のレイキャヴィーク会談では、核兵器の大幅な削減までが話し合われ、レーガンの宇宙からのミサイル防衛の構想をめぐって決裂したものの、中距離ミサイルをなくす道筋が見えた。1987年、ゴルバチョフは中距離ミサイルの交渉を宇宙の防衛の問題と切り離すことに同意し、話は一気に進んだ。

1987年12月8日、ホワイトハウスの東の間で、レーガン大統領とゴルバチョフは条約に署名した。射程500キロから5500キロの、地上から発射する弾道ミサイルと巡航ミサイルを、すべて廃棄する。それまでの軍縮の条約は、数の上限を決めるものだった。核兵器の一つの種類をまるごとなくすのは、これが初めてだった。互いの国のミサイルの工場や基地に査察官を送り、廃棄を自分の目で確かめる仕組みも入った。署名の席でレーガンは、ロシアのことわざを引いて「信頼せよ、されど確かめよ」と語った。ゴルバチョフが、あなたは会うたびにそれを言う、と返すと、会場は笑いに包まれた。
アメリカの上院は1988年に条約を承認し、廃棄が始まった。ミサイルは爆破され、切断され、押しつぶされた。1991年5月までに、アメリカが846発、ソ連が1846発、合わせて2692発のミサイルが壊された。ヨーロッパの冷戦の緊張は大きく和らぎ、この流れは1989年のベルリンの壁の崩壊と、1991年のソ連の解体(ソ連の解体)へとつながっていく。

条約は、ソ連のあとを継いだロシアとアメリカの間で生き続けた。だが2010年代、アメリカは、ロシアが条約で禁じられた射程の新しい巡航ミサイルを開発し配備したと非難した。ロシアは否定し、逆にアメリカの東ヨーロッパのミサイル防衛の施設が条約に反すると主張した。アメリカの側には、条約に縛られない中国が中距離ミサイルを大量に持つようになったことへの不満もあった。2019年8月、アメリカは条約から脱退し、条約は失効した。一つの種類の核兵器を地上からなくした条約は、32年で終わった。