人物

アラン・チューリング

Alan Turing
AD1912年6月23日 – AD1954年6月7日(享年41)
イギリス重要度 5

概要

「計算できるとはどういうことか」を機械の形で定義した。大戦中は暗号解読に従事する。戦後に同性愛を理由に有罪となり、41歳で死んだ。

関わったできごと(2)

「計算可能な数について」AD1936年 · 著者エニグマの解読AD1940年 · 解読

本文

1912年6月23日、ロンドンに生まれた。父はインドで働くイギリスの行政官で、両親がインドに戻っている間、兄とともにイングランドの退役軍人の家に預けられて育った。

アラン・チューリングの肖像
アラン・チューリングの肖像Wikimedia Commons Elliott & Fry · Public domain

14歳でパブリックスクールのシャーボーン校に入った。新学期の初日がちょうどゼネストの日にあたり、鉄道が止まっていたため、およそ100キロの道のりを自転車で走って学校へ行ったという話が残る。学校は古典の教養を重んじる場所で、数学と化学の実験に夢中になる彼は扱いにくい生徒だった。

学校で、同じように科学を愛する一つ上の友人クリストファー・モーコムと出会い、強く惹かれた。1930年、モーコムは結核で急死する。心とは何か、それは物質とどう関わるのかという問いを考え続けるきっかけになったと、のちの伝記作者は見ている。

ブレッチリー・パーク内にあるこの建物で、チューリングは、1939年から1940年まで働き、その後 Hut 8 に移った。
ブレッチリー・パーク内にあるこの建物で、チューリングは、1939年から1940年まで働き、その後 Hut 8 に移った。Wikimedia Commons Matt Whitby · Public domain

ケンブリッジ大学のキングズ・カレッジで数学を学び、1935年、22歳でカレッジのフェローに選ばれた。同じ年、数学者ヒルベルトが立てた、どんな数学の命題についても正しいかどうかを機械的に決める手順があるかという問いに取り組み始める。

1936年に書いた論文「計算可能数について」で、彼は「計算する」という行為そのものを、紙のテープに記号を読み書きしながら決まった規則で動く、ごく単純な機械として定義した。のちにチューリング機械と呼ばれるものである。そして、そうした機械のどれでも真似できる一台の万能機械がありうることを示し、同時に、どんな機械にも決められない問題があることを証明して、ヒルベルトの問いに否定の答えを出した。アメリカの論理学者チャーチがほぼ同時に別の方法で同じ結論に達している。このとき23歳だった。プログラムを読み込んで何にでもなる機械という考えは、現在のコンピュータの理論的な原型になった。

チューリングの生誕地を示すブルー・プラーク(ロンドン・メイダヴェール)
チューリングの生誕地を示すブルー・プラーク(ロンドン・メイダヴェール)Wikimedia Commons Simon Harriyott from Uckfield, England · CC BY 2.0

1939年9月、イギリスがドイツに宣戦した翌日、政府の暗号学校が置かれたブレッチリー・パークに入った。ドイツ軍は、回転する円盤で文字を置き換えるエニグマという暗号機を使い、設定を毎日変えていた。ポーランドの暗号学者たちは開戦前にその仕組みの一部を解き、解読用の機械を作っていて、その成果がイギリスに引き渡された。チューリングはこれを発展させ、暗号文に含まれていそうな語句の手がかりから設定の候補を機械的に絞り込む装置「ボンブ」を設計した(エニグマの解読)。

とりわけ難しかったのが、ドイツ海軍のエニグマだった。チューリングはその解読を担う班を率い、Uボートの位置を知らせる通信を読めるようにした。大西洋の船団の被害が減り、第二次世界大戦が2年ほど短くなったという推計があるが、確かめようのない数字でもある。1941年には、人員の不足を訴えて、同僚とともにチャーチルに直接手紙を書き、首相はただちに対応を命じている。

16歳頃のチューリング(1928-1929年頃)
16歳頃のチューリング(1928-1929年頃)Wikimedia Commons Possibly Arthur Reginald Chaffin (1893-1954) · Public domain

同僚の回想に残る彼は、型破りだった。花粉症の季節にはガスマスクをつけて自転車に乗り、マグカップを盗まれないよう暖房管に鎖でつないでいた。マラソンの選手としても一流で、戦後はオリンピックの代表選考に近い記録を出している。

戦争が終わると、国立物理学研究所でプログラムを内蔵する電子計算機の設計書を書き、のちにマンチェスター大学で初期のコンピュータの開発に関わった。1950年の論文「計算機械と知性」では、機械は考えることができるかという問いを、文字のやりとりだけで人間と区別がつかないかを試す「模倣ゲーム」に置き換えた。いまチューリング・テストと呼ばれる考え方である。晩年には、生き物の模様がどうやってできるかを化学反応の式で説明する論文も書いている。

コーンウォールのチューリング(左から2番目)とシャーボーン校の仲間たち、1930年4月
コーンウォールのチューリング(左から2番目)とシャーボーン校の仲間たち、1930年4月Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ブレッチリーでの仕事は、本人も同僚も、戦後30年ほど語ることを許されなかった。戦争に勝つために何をしたのかを、周囲は知らなかった。

1952年、自宅に泥棒が入った件で警察に届けた際、知り合いの若い男性との関係を自ら話し、当時のイギリスで犯罪だった男性同士の行為を理由に起訴された。有罪となり、刑務所に入るか、女性ホルモンの投与を受けるかを選ばされ、後者を選んだ。体は変わり、公職の機密の仕事にも関われなくなった。

1930年代のチューリング
1930年代のチューリングWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1954年6月、マンチェスター近郊の自宅で、青酸中毒で死んでいるのが見つかった。41歳だった。枕元にかじりかけのリンゴがあったが、毒の検査はされていない。検死は自殺とした。母は、自宅で青酸を使った化学の実験をしていた彼の不注意による事故だと信じ続けた。どちらだったかは分かっていない。

戦時の仕事が公になったのは1970年代で、彼の名が広く知られるようになるのはその後である。2009年、ブラウン首相が政府として彼の受けた扱いを謝罪し、2013年にはエリザベス2世による死後の恩赦が出た。2017年には、同じ法律で有罪とされた多くの人々をまとめて赦す法律ができ、通称チューリング法と呼ばれている。2021年からは、イングランド銀行の50ポンド紙幣に彼の肖像が使われている。

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