できごと

ネイピアの対数

Mirifici Logarithmorum Canonis Descriptio
AD1614年
重要度 5
ロシア帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国大英帝国スウェーデン帝国ポーランド・リトアニア共和国スウェーデンポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国フランス王国スペインWatassid MoroccoEngland and Irelandクリム・ハン国ヴェネツィア共和国スコットランドNaplesFinnmarkプロイセンHabsburg NetherlandsAD1614年エディンバラ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1614年の版図を描いています(22勢力)。

概要

掛け算を足し算に変える。スコットランドの領主ジョン・ネイピアが20年かけて表を作った。数を並べ、その指数を並べれば、掛けたい二数の指数を足して引き直せばよい。天文学者は、それまで何日もかけていた計算を数時間で済ませられるようになった。ラプラスが「天文学者の寿命を二倍にした」と言った。ブリッグズが常用対数に直し、オートレッドが二本の対数目盛りを滑らせる計算尺を作った。この道具は、アポロ計画まで使われた。

場所

エディンバラ
55.95°N -3.19°E · イギリス・スコットランド

関わった人(1)

ジョン・ネイピアAD1550年–AD1617年4月4日 · 作った

本文

16世紀の後半、天文学と航海術は、計算の壁に突き当たっていた。デンマークのティコ・ブラーエの観測は、望遠鏡が無い時代としては驚くほど精密になった。だが、その観測から惑星の位置を計算するには、6桁、7桁の数の掛け算や割り算、三角関数の計算を、何百回、何千回と繰り返さなければならない。一つの掛け算に何分もかかり、どこかで一度間違えれば、そこから先がすべて狂う。ティコの観測を受け継いだヨハネス・ケプラーは、火星の軌道を突き止めるのに何年もの計算を費やした。

当時の天文学者たちは、三角関数の公式を使って、掛け算を表引きと足し引きに置き換える技を使っていた。プロスタファイレシスと呼ばれる方法で、計算は楽になったが、手順は面倒だった。もっと素直に、掛け算を足し算に変える方法は無いか。それを考えたのが、スコットランドの領主ジョン・ネイピアである。

ネイピアの対数表『驚くべき対数の規則の説明』扉(1614年)
ネイピアの対数表『驚くべき対数の規則の説明』扉(1614年)Wikimedia Commons John Napier · Public domain

ジョン・ネイピアは1550年、エディンバラ近郊のマーチストン城の領主の家に生まれた。セント・アンドルーズ大学で学び、大陸にも遊学したとされる。彼が生前に名を知られたのは、数学ではなく神学だった。1593年に出した『ヨハネ黙示録の明白な発見』は、ローマ教皇を反キリストと論じる熱烈なプロテスタントの書で、各国語に訳されて版を重ねた。領地の農業の改良や、スペインの侵攻に備える新兵器の構想にも打ち込んでいる。対数は、そうした仕事のかたわら、20年ほどをかけて仕上げたものだった。

考え方の芯は、二つの数の並びを見比べることにある。上の段に、1、2、4、8、16、32、64、128と、2倍ずつ増える数を並べる。下の段に、0、1、2、3、4、5、6、7と、1ずつ増える数を並べる。上の段の8と16を掛けたいとき、その下にある3と4を足すと7になる。7の上にある数は128で、確かに8掛ける16は128である。掛け算が、足し算になった。割り算は引き算に、平方根を取ることは2で割ることになる。

ネイピアの対数の構成法(コンストルクティオ)英訳版の扉
ネイピアの対数の構成法(コンストルクティオ)英訳版の扉Wikimedia Commons Public domain

問題は、この対応が飛び飛びなことだった。上の段に無い数は扱えない。ネイピアは、この対応をすき間なくつなげた。二つの点が同時に動き出し、一方は一定の速さで、もう一方は残りの距離に比例して遅くなる速さで動く、という運動を考え、二つの点の位置の関係として対数を定めたのである。微分や積分がまだ無い時代で、運動の言葉で書くしかなかった。こうして、どんな数にも対応する値を、細かく計算して表にすることができた。

1614年、ネイピアはラテン語で『驚くべき対数の法則の記述』を出した。説明の部分と、およそ90ページの表から成る。「対数(ロガリズム)」という言葉も彼の造語で、ギリシア語の「比」と「数」を組み合わせたものとされる。彼の対数は、いまの教科書に出てくる対数とは基準が違い、三角関数の計算に使いやすいように作られていた。

ネイピアの第一補助表(減算で求めた等比数列)
ネイピアの第一補助表(減算で求めた等比数列)Wikimedia Commons John Napier, William Rae Macdonald · Public domain

この本に夢中になったのが、ロンドンのグレシャム・カレッジの幾何学の教授ヘンリー・ブリッグズだった。彼は友人への手紙に、ネイピアの新しく驚くべき対数に頭も手も奪われている、この夏には神の思し召しがあればこの人に会いに行きたい、と書いた。1615年、ブリッグズははるばるエディンバラを訪ねた。二人は顔を合わせるなり、15分ほど互いに感嘆して言葉も無く見つめ合った、という逸話が伝わっている。

ブリッグズは、基準を変えることを提案した。1の対数を0、10の対数を1とする。そうすれば、数の桁が一つ上がるたびに対数がちょうど1増え、表には小数の部分だけを載せればよい。いまの常用対数である。ネイピアは、自分も同じことを考えていたと答えて賛成したが、すでに体が弱っていた。1617年、ネイピアは死んだ。同じ年、彼は掛け算を助ける目盛り付きの棒(ネイピアの骨)の本も出している。

ネイピアの第二補助表
ネイピアの第二補助表Wikimedia Commons John Napier, William Rae Macdonald · Public domain

ブリッグズが仕事を引き継いだ。1617年に1から1000までの、1624年には1から2万までと9万から10万までの数について、14桁の常用対数の表を出した。残りの部分は、オランダのアドリアーン・ヴラックが埋めて1628年に出版した。スイスの時計職人ヨースト・ビュルギも、ネイピアとは別に対数の表を作っていたが、公にしたのは1620年で、広まったのはネイピアとブリッグズの対数だった。

効き目は大きかった。ケプラーは対数をいち早く取り入れ、1627年に惑星の位置を求める『ルドルフ表』を完成させた。彼はネイピアへの敬意を書き記している。のちにフランスの数学者ラプラスは、対数は労力を縮めることで天文学者の寿命を2倍にした、と評した。航海士は対数の表で船の位置を計算し、測量士は土地を測り、銀行家は利息を計算した。

ネイピアの第三「基数」表
ネイピアの第三「基数」表Wikimedia Commons John Napier, William Rae Macdonald · Public domain

対数は、道具にもなった。1620年ごろ、イギリスのエドマンド・ガンターが対数の目盛りを刻んだ物差しを作り、まもなくウィリアム・オートレッドが二本の目盛りを滑らせて掛け算をする道具を考えた。計算尺である。長さを足せば、掛け算になる。計算尺はそれから350年近く、技術者のポケットに入っていた。アポロ11号の月面着陸の宇宙飛行士たちも、計算尺を携えていた。1970年代に関数の計算ができる電卓が出回ると、計算尺は数年のうちに姿を消した。

対数の表も計算尺も、いまは使われない。だが対数そのものは消えていない。音の大きさを表すデシベル、地震の規模を表すマグニチュード、酸性やアルカリ性を表すペーハー、星の明るさの等級、情報の量の単位。何倍にも広がる量を扱うところには、いまも対数が住んでいる。掛け算を足し算に変えるという400年前の思いつきは、目に見えないところで働き続けている。

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