オーギュスタン・ジャン・フレネル
概要
建築技師の子。体が弱く、八歳まで読めなかったと伝えられる。エコール・ポリテクニークを経て土木技師になり、道路と橋を作りながら、独学で光を研究した。ナポレオンの百日天下に反対して職を解かれた期間に、回折の実験を行っている。光は粒子ではなく波であり、しかも進行方向に垂直に振動する横波である、と数学で示した。当時の主流であったニュートン以来の粒子説を、覆した。灯台のレンズは、その理論の応用である。三十九歳で結核により死んだ。
関わったできごと(1)
フレネル・レンズAD1823年 · 設計本文
オーギュスタン・ジャン・フレネルは1788年5月10日、ノルマンディーの村ブログリーに生まれた。父は建築の技師で、シェルブールの軍港の工事にかかわっていた。翌年に革命が始まると、一家は田舎に引きこもった。厳格な信仰の家だったと伝えられる。

少年はひどく体が弱く、8歳になってもろくに字が読めなかったという。教育は母が家で授けた。だが手先は器用で、10代の初めに作った弓やおもちゃの大砲の威力があまりに強く、近所の子どもたちに「天才」と呼ばれ、大人たちに使うのを禁じられた、という話が残っている。13歳でカーンの学校に入り、16歳でパリのエコール・ポリテクニークに進んだ。数学者ルジャンドルが、彼の答案の独創的な解き方に目を留めたと伝えられる。続いて土木の学校で学び、国の土木技師になった。
技師としての彼は、フランス西部のヴァンデや南東部のドロームで、道路や橋を造った。その合間に、光の研究を始めた。研究の設備などない。器具は自分で作り、地元の鍛冶屋に部品を頼んだ。

1815年、エルバ島を抜け出したナポレオン・ボナパルトがパリに戻り、百日天下が始まった。王党派のフレネルはこれに公然と反対し、国王の側の兵に加わろうとしたとされる。そのため職を解かれ、ノルマンディーの母の家に、半ば押し込められるようにして暮らすことになった。だがその数か月が、彼に時間を与えた。彼は光が物の縁を回り込む「回折」の実験に没頭した。
当時の主流は、アイザック・ニュートン以来の粒子説だった。光は小さな粒の流れだという考えで、フランス学士院の大物ラプラスやビオがそれを支持していた。イギリスではトマス・ヤングが1801年から、光は波だと唱え、二つの光が重なって強め合ったり打ち消し合ったりする干渉の実験を示していたが、フランスではほとんど顧みられていなかった。フレネルはヤングの仕事をよく知らないまま、独自に同じ道をたどり、さらに先へ進んだ。

彼は、光の波の一つ一つの点から新しい小さな波が広がるというホイヘンスの考えに、波の重なり合いを組み込み、回折でできる明暗の縞の位置と明るさを、数式で正確に計算してみせた。この考えはいま「ホイヘンス=フレネルの原理」と呼ばれる。
1819年、フランス学士院は回折をテーマに懸賞論文を募った。審査員のラプラス、ビオ、ポアソンはみな粒子説の側で、粒子説を裏づけるための懸賞だと見られていた。フレネルは波の理論で応募した。審査員のポアソンは、その理論の弱点を突こうとして計算した。この理論が正しければ、丸い円盤の影の真ん中に、明るい点ができるはずだ。そんなことはありえない。だが審査員のアラゴが実際に試すと、影の中心に、明るい点が確かに現れた。この点はいま、否定しようとした人の名をとって「ポアソンの斑点」と呼ばれる。じつは18世紀の初めにも観察した人がいたが、忘れられていた。フレネルは賞を得た。

彼はアラゴとともに、光の偏り(偏光)も調べた。互いに直角の向きに偏った二つの光は、重ねても干渉しない。この奇妙な結果を説明するため、彼は1821年ごろ、光は音のように進む向きに揺れる波ではなく、進む向きと直角に揺れる横波だと結論した。大胆な考えだった。当時、光の波を伝えるものとして「エーテル」が想定されていたが、横波を伝えるならそれは固体のように硬くなければならない。この難問は、のちにマクスウェルの電磁気の理論と、エーテルそのものを不要にした相対性理論が解くことになる。光が横に揺れる波だという彼の結論は、その電磁波の理論の前提になった。
1819年、彼は灯台の委員会の一員になった。当時の灯台は、火の光を鏡で集めていたが、遠くまで届かなかった。大きなレンズで光を絞ればよいが、厚いガラスのレンズは重く、熱で割れ、光を吸ってしまう。フレネルは、一枚の厚いレンズを削り出す代わりに、同じ働きをする薄い輪を同心円状に並べて組み合わせることを考えた(フレネル・レンズ)。ガラス職人や金具の職人と試作を重ね、1823年、ジロンド川の河口のコルドゥアン灯台に取りつけた。光はそれまでよりはるかに遠くまで届くようになり、この方式はたちまち世界中の灯台に広がった。

だが、もともと弱い体は、研究と公務の両方の重さに耐えられなかった。1824年ごろから結核が進んだ。1827年、ロンドンの王立協会は彼にラムフォード・メダルを贈った。友人のアラゴが、死の床にあった彼にそれを届けた。かつて最も欲しかった名誉も、いまの自分にはあまり意味がない、という趣旨のことを彼は言ったと伝えられる。1827年7月14日、フレネルはパリ近郊のヴィル=ダヴレーで死んだ。39歳だった。発表されないまま残された論文の多くは、死後に仲間たちの手で世に出された。
フレネルの名は、いまもあちこちに残る。光の反射の強さを表す「フレネルの式」、電波の通り道を考えるときの「フレネル帯」。灯台だけでなく、自動車のライト、劇場の照明、拡大鏡のシート、カメラの部品にまで、彼のレンズの考えが使われている。パリのエッフェル塔の側面には、フランスの科学と技術を築いた72人の名が刻まれていて、その一つが彼の名である。