『ロジェールの書』と世界地図

概要
ムスリムの地理学者がキリスト教徒の王のために作った。以後300年、ヨーロッパでこれを超える世界地図は現れない。
場所
38.12°N 13.36°E · イタリア・シチリア州
関わった人(1)
アル=イドリースィーAD1100年–AD1165年頃 · 作成本文
11世紀の後半、北フランスから来たノルマン人の騎士たちが、イスラーム教徒の支配していたシチリア島を奪った(ノルマンのパレルモ征服)。1130年、その一族のルッジェーロ2世が王の位に就き、シチリア王国が生まれる(ルッジェーロ2世のシチリア王国)。都のパレルモには、アラブ人、ギリシア人、ラテン系の人々が混じって暮らしていた。王の役所の文書はアラビア語、ギリシア語、ラテン語で書かれ、王宮の礼拝堂の天井はイスラーム風の職人が飾った。キリスト教徒の王が、ムスリムの役人や学者を使って国を治めていた。
ルッジェーロ2世は、自分の国と世界のありさまを正しく知りたいと考えた。そこで招いたのが、アル=イドリースィーだった。北アフリカのセウタに生まれ、イベリア半島のコルドバで学び、若いころから地中海の各地や小アジアを旅した学者である。1138年ごろにパレルモに来たとされ、それから15年ほどを地理書と地図づくりに費やした。

方法は手堅かった。古代のクラウディオス・プトレマイオスの地理学や、それまでのアラブの地理学者の書物を読み比べるだけでなく、パレルモの港に来る商人や船乗り、巡礼者から話を聞いた。食い違う証言は捨てるか、複数の話が一致したものだけを採ったとされる。各地へ人を送って測らせたという話も伝わる。
1154年1月、書物は完成した。題は『遠い国々を知ることを望む者の慰みの書』という意味のアラビア語で、王の名をとって『ロジェールの書』とも呼ばれる。世界を北から南へ七つの気候帯に分け、それぞれを西から東へ十に区切って、合わせて70枚の地域図を作り、それぞれに町と町の距離、産物、人々の暮らしを書き添えた。ほかに世界全体を描いた円い地図が一枚ある。王のために、大きな銀の円盤に世界図を彫ったものも作られたが、これはまもなく失われたとされる。

地図は南が上に描かれている。これはイスラーム世界の地図ではよく見られる描き方で、聖地メッカが多くのムスリムにとって南の方角にあったことと関わるとも言われる。地中海とヨーロッパ、北アフリカ、中東はかなり正確に描かれ、ナイル川の源は南の「月の山」から流れ出している。ユーラシアの東の端やアフリカの南は、まだ伝聞の世界だった。
同じころのヨーロッパの世界地図は、多くが聖書の世界観に沿って描かれた円い図で、エルサレムを真ん中に置き、正確な位置よりも信仰の意味を伝えるためのものだった。地中海の船乗りが実用の海図を作り始めるのは13世紀の終わりからで(ポルトラーノ海図)、世界全体をこれより正確に描く地図がヨーロッパに現れるのは、15世紀の半ばごろまで待たなければならない。

ルッジェーロ2世は、書物の完成から1か月ほど後の1154年2月に死んだ。アル=イドリースィーは息子の王の代にも仕えたが、その治世にはパレルモでムスリムを襲う騒ぎが起き、王国の中の共存はしだいに崩れていった。13世紀には、島に残ったムスリムが本土へ移されることになる。アル=イドリースィーはのちに北アフリカへ帰ったとされ、晩年のことはよく分かっていない。
アラビア語で書かれたこの書物は、ヨーロッパではすぐには読まれなかった。要約がアラビア語のままローマで印刷されたのは1592年、それがラテン語に訳されてパリで出たのは1619年である。書物の写本は、オックスフォードやパリなどにいくつか残っている。その地図をつなぎ合わせて一枚の大きな世界図に復元する試みが、20世紀に行われた。ムスリムの学者が、キリスト教徒の王の金で、地中海の三つの文化が出会う島で作った地図である。