チェルノブイリ原発事故
概要
午前1時23分、試験中の4号炉が爆発した。黒鉛が10日燃えた。政府は2日黙り、スウェーデンの観測所が気づいた。プリピャチの5万人は36時間後に出た。消防士と「リクビダートル」60万人。死者は31人とも数万人とも。ゴルバチョフは「これが本当のペレストロイカの始まり」と言った。
場所
51.39°N 30.10°E · ウクライナ
関わった人(1)
ゴルバチョフAD1931年3月2日–AD2022年8月30日 · 書記長本文
ソ連は1950年代から原子力発電に力を入れ、1970年代には大型の原子炉を次々に建てていた。ウクライナの北部、ベラルーシとの境に近いプリピャチ川のほとりにも、1970年代に原子力発電所が建てられ、レーニンの名が冠された。発電所で働く人々とその家族のために、すぐ隣に新しい町プリピャチが作られた。人口はおよそ5万人。若い技術者の家族が多く、映画館やプールや文化会館がそろった、ソ連でも恵まれた町だった。
発電所の4基の原子炉は、RBMKと呼ばれるソ連独自の型だった。黒鉛のブロックで中性子の速さを落とし、管の中を流れる水で冷やす。大きな出力を安く得られる一方、出力が低いときに、冷却水が沸騰して泡が増えると反応がかえって強まるという、不安定な性質を持っていた。燃料を抜き差しする制御棒にも、のちに致命的と分かる欠陥があった。こうした弱点は、一部の専門家には知られていたが、運転する現場には十分に伝えられていなかった。7年前にアメリカで起きたスリーマイル島原発事故のあとも、ソ連の指導部は、自国の原子炉は安全だと言い続けていた。

1986年4月25日、4号炉は定期点検のために運転を止める予定だった。その前に一つの試験が組まれていた。発電所の外からの電気が断たれたとき、止まりかけたタービンが惰性で回る力で、非常用のポンプを動かす電気をどれだけ作れるかを確かめる試験である。ところが、昼に出力を下げはじめたところで、キエフの電力の管理者から、電気が足りないので夜まで待てと指示が入った。試験は、準備にかかわっていなかった夜勤の運転員たちが行うことになった。
4月26日の深夜、出力を下げていく途中で、出力が予定よりはるかに低いところまで落ち込んだ。炉の中にたまった物質が反応を抑えていたためで、運転員たちは出力を戻そうとして、規則で定められた数を超えて制御棒を引き抜いた。炉は、ひどく不安定な状態で動き続けた。午前1時23分すぎ、試験が始まった。数十秒後、運転員が緊急停止のボタンを押し、すべての制御棒が炉に差し込まれはじめた。ところが、制御棒の先端についていた黒鉛の部分が先に入ったことで、炉の下のほうでは一瞬、反応がかえって強まった。出力は数秒で急上昇し、燃料が砕け、冷却水が一気に蒸気になった。
午前1時23分45秒ごろ、蒸気の爆発が原子炉の上にかぶせてあった1000トンを超える重い蓋を吹き飛ばし、数秒後に二度目の爆発が起きた。建物の屋根が崩れ、燃える黒鉛と燃料の破片がまわりに飛び散った。むき出しになった炉からは、放射性物質が空へ噴き上がった。炉の黒鉛はそれから10日ほど燃え続けた。
駆けつけた消防士たちは、放射線の量を知らされないまま、屋根の上で燃える火を消しにかかった。制御室では、運転員たちが、炉は壊れていない、水を送ればよいと信じて、高い放射線のなかで給水を続けようとした。爆発で2人が死に、その後、急性の放射線障害で28人が数か月のうちに亡くなった。消防士や運転員が多かった。

政府の対応は遅れた。プリピャチの住民は、事故の翌日も普段どおりに暮らし、子どもたちは外で遊んだ。避難が始まったのは4月27日の午後で、1000台を超えるバスが集められ、住民は3日分の荷物だけを持つよう言われて町を出た。誰も戻ることはなかった。ソ連の政府は、事故を国の外に知らせなかった。4月28日の朝、1000キロ以上離れたスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所で、出勤した職員の靴から放射性物質が見つかり、発電所は自分たちの事故を疑って調べ、やがて汚染が東から風で運ばれてきたものだと突き止めた。その夜になって、ソ連のテレビは、チェルノブイリで事故が起き、対策がとられているという短い発表を読み上げた。5月1日、放射性物質が降るキエフでは、例年どおりメーデーの行進が行われた。書記長のゴルバチョフが国民にテレビで事故について語ったのは、5月14日のことである。
燃え続ける炉に、ヘリコプターから砂や粘土やホウ素、鉛など5000トンほどが投げ込まれた。炉心が溶けて地下水に達するのを防ぐため、炭鉱の労働者たちが炉の下へトンネルを掘った。屋根の上に散らばった高い放射線を出す黒鉛は、遠隔操作のロボットが放射線で故障したため、兵士たちがシャベルで数十秒ずつ交代で落とした。こうした後始末に、ソ連の各地から数十万人、のちの数え方では60万人ともいわれる人々が動員され、「リクビダートル(後始末をする者)」と呼ばれた。11月、壊れた4号炉は鉄とコンクリートの巨大な覆い「石棺」で囲まれた。

発電所から30キロ以内は立ち入りを禁じられ、その年のうちに11万6000人が住まいを離れた。その後の移住を合わせると、35万人ほどが故郷を失った。放射性物質は風に乗ってヨーロッパの広い範囲に降り、とりわけ北の隣のベラルーシは大量の降下物を受けた。牛乳などを通じて放射性のヨウ素を取り込んだ子どもたちのあいだで、のちに甲状腺がんが大きく増え、数千人が手術を受けた。事故による死者の数は、いまも大きく食い違う。国際機関の報告は、放射線の影響で将来亡くなる人を含めて4000人ほどと推計したが、環境団体などは数万人から9万人を超えるとする。何を死因に数えるかによって、答えは大きく変わる。国際的な事故の尺度で最も重い7とされたのは、のちの2011年の福島の事故(東日本大震災と福島第一原発事故)と、この事故だけである。
事故の調査を率いた科学者ヴァレリー・レガソフは、1986年の夏、ウィーンの国際原子力機関(国際原子力機関の設立)の会議で、事故の経過を驚くほど率直に報告した。だが国内では原子炉の設計の欠陥について語ることが許されず、彼は事故の2年後の1988年4月、自ら命を絶った。所長や副技師長ら発電所の幹部は、規則違反の罪で裁かれ、労働収容所に送られた。設計の責任が公に認められたのは、後になってからである。

事故は、ソ連という国のあり方を問うことにもなった。情報を隠し、住民を危険にさらし、現場に責任を押しつける体質が、隠しようもなく世界の前にさらされた。ゴルバチョフは事故のあと、情報の公開(ペレストロイカとグラスノスチ)をさらに強く進めた。後年、彼は、チェルノブイリはソ連が崩れた本当の原因だったかもしれない、と書いている。5年後、ソ連は解体し、発電所はウクライナのものになった。残った原子炉は2000年までにすべて止められ、2016年には、傷んだ石棺をすっぽり覆う巨大なアーチ形の新しい覆いがかぶせられた。
2022年2月、ロシアがウクライナに攻め込むと(ロシアのウクライナ侵攻)、ロシア軍は立ち入り禁止区域を通ってキエフへ向かい、発電所を一時占領した。汚染のひどい森で塹壕を掘った兵士たちが被曝したと報じられた。無人の町プリピャチには、事故の数日後の5月1日に開かれる予定だった遊園地の観覧車が、一度も客を乗せないまま立っている。