ヨハネス・ケプラー
概要
惑星の軌道が円ではなく楕円だと突き止めた。占星術の依頼で生計を立て、母を魔女裁判から救い出すのに6年を費やしている。
所属
神聖ローマ帝国関わったできごと(1)
ケプラーの法則AD1609年 · 発見本文
ヨハネス・ケプラーは1571年12月、ドイツ南西部のヴュルテンベルクにある小さな町ヴァイル・デア・シュタットに生まれた。祖父は町長を務めた人だったが、父は傭兵として各地の戦争に出かけ、家に寄りつかず、やがて行方が分からなくなった。母カタリーナは宿屋の娘で、薬草に詳しく、気が強く口の悪い人だったという。のちにケプラーは、自分の家族について、驚くほど辛辣な文章を書き残している。

幼いころに天然痘にかかり、視力が弱くなった。遠くのものも、星も、はっきりとは見えなかった。だが、5歳の冬、母に連れられて丘に登り、空に大きな彗星を見た。8歳のときには、父に呼ばれて月食で赤く染まった月を見た。この二つの夜の記憶を、彼は生涯忘れなかった。
成績のよかった少年は、領邦の奨学金でテュービンゲン大学に進み、ルター派の牧師になるために神学を学んだ。そこで数学と天文学の教授メストリンから、太陽を中心に惑星が回るというコペルニクスの説を教わり、強く惹かれた。卒業を前に、オーストリアのグラーツのプロテスタントの学校で数学の教師が足りないと聞き、教授たちに推されてその職に就いた。牧師への道は、ここで外れた。

グラーツで彼は、州の数学官として毎年の暦を作る仕事も任された。暦には天気や戦争の予言を載せるのが習わしで、最初の年に彼が予言した厳しい寒さとトルコ軍の侵入が当たり、評判になった。1596年、25歳で最初の本『宇宙の神秘』を出した。惑星はなぜ六つなのか、なぜその間隔なのか。彼は、立方体や正十二面体など五つの正多面体を入れ子にすると、そのすき間がちょうど六つの惑星の軌道に収まる、と考えた。いまから見れば誤った考えだが、神は宇宙を数学の調和で作った、という彼の確信は、ここから生涯変わらなかった。
1600年、カトリックの大公がグラーツからプロテスタントを追い出すと、ケプラーは職を失った。行き先は、プラハで神聖ローマ皇帝ルドルフ2世に仕えるデンマークの天文学者ティコ・ブラーエのもとだった。ティコは、望遠鏡の発明の前に、巨大な観測器具で20年以上にわたって惑星の位置を記録し続けた、当時最も精密な観測者だった(ティコの新星)。だが、ティコは記録を簡単には見せなかった。ケプラーが任されたのは、最も扱いにくい火星の軌道の計算だった。

1601年10月、ティコは急死した。ケプラーはその後を継いで皇帝付きの数学官となり、ティコの膨大な観測記録を手にした。遺族は記録を渡すことを嫌い、ケプラーと長く争ったが、彼は記録を手放さなかった。自分が先にそれを確保したことを、彼は後に正直に認めている。
火星との戦い、と彼自身が呼んだ計算は、何年も続いた。昔から、天体の動きは円の組み合わせで説明すべきものとされてきた。ケプラーも円を組み合わせて火星の軌道を作り、ほとんど合うところまで来た。だが、ティコの観測と比べると、角度にしてわずか8分、満月の幅の4分の1ほどのずれが残った。ティコの観測はそれほど正確だと信じていたケプラーは、この小さなずれを見過ごさず、それまでの何年もの計算を捨てた。卵のような形を試し、やがて楕円にたどり着く。惑星は太陽を一つの焦点とする楕円の上を動き、太陽に近いところでは速く、遠いところではゆっくり動く。1609年、この二つの法則を『新天文学』として発表した(ケプラーの法則)。

ケプラーは光と目の研究でも先駆けだった。目の中のレンズが、目の奥の網膜に逆さの像を結ぶことを示し、ガリレオ・ガリレイが望遠鏡で木星の衛星を見つけると、いち早くこれを支持し、凸レンズを二枚使う新しい望遠鏡の仕組みを考えた。雪の結晶がなぜ六角形になるのかを論じた小さな本も書いている。
暮らしは楽ではなかった。皇帝からの給料はしばしば滞り、生計の多くは、貴族や将軍の求めに応じて書く占星術の予言でまかなった。彼は占星術を、天文学という賢い母を養う愚かな娘、と呼んだことがある。三十年戦争の将軍ヴァレンシュタインのホロスコープも書いた。1611年には妻と幼い息子を亡くし、庇護者の皇帝も退位した。ケプラーはオーストリアのリンツへ移った。

1615年、故郷の町で、年老いた母が魔女として告発された。隣人の女性に毒の薬を飲ませたなどという訴えだった。ケプラーは何度も故郷に戻り、法の知識を総動員して弁護の文書を書いた。母は1620年に捕えられ、14か月にわたって鎖につながれ、拷問の道具を見せられて自白を迫られたが、最後まで罪を認めなかった。1621年、母は釈放されたが、その半年後に亡くなった。同じころ、ケプラーは、惑星の公転の周期と太陽からの距離の関係を見つけ、1619年に『世界の調和』で発表している。惑星の軌道を計算する人と、魔女を焼く裁判とが、同じ時代、同じ家族の中に並んでいた。
1627年、ケプラーはティコの観測と自分の法則をもとに、惑星の位置を計算する表を完成させた。それまでの表より何十倍も正確だった。だが、三十年戦争の中で、プロテスタントの彼が落ち着ける場所はなかった。1630年11月、未払いの給料を求めて旅に出たケプラーは、レーゲンスブルクで病に倒れ、58歳で亡くなった。自作の墓碑銘には、私は天を測った、いまは地の影を測る、と記されていたという。墓は戦争の中で失われ、場所は分かっていない。

半世紀後、アイザック・ニュートンは、ケプラーの三つの法則が、ただ一つの力、引力から導けることを示した。8分のずれを見逃さなかったケプラーの頑固さが、近代の物理学の扉を開いたのである。