『鷹狩りの技術』
概要
神聖ローマ皇帝で、シチリア王でもあったフリードリヒ二世は、何より鷹狩りを好んだ。南イタリアの宮廷には、アラブやペルシアの鷹匠が仕え、彼は鷹と獲物の鳥を何十年も見続けた。そうして書いた六巻の本は、鷹の育て方と使い方の手引きであると同時に、鳥の骨格、羽の生え方、渡りの仕方を、自分の目で確かめて書いたものだった。アリストテレスの書いたことでも、見て違えば違うと書いた。王侯の遊びのための本が、古い書物の権威より目の前の鳥を信じるという、のちの博物学のやり方を先取りしていた。
場所
41.46°N 15.54°E · イタリア・プーリア州
本文
フリードリヒ二世(1194〜1250年)は、中世のヨーロッパでもとりわけ型破りな君主だった。父はドイツの王家シュタウフェン家の皇帝で、祖父は赤ひげ帝と呼ばれたフリードリヒ1世(バルバロッサ)。母は、ノルマン人が南イタリアに建てたシチリア王国の王女だった(ルッジェーロ2世のシチリア王国)。三歳でシチリア王となり、幼くして両親を失った彼は、シチリアの都パレルモで育った。
パレルモは、ギリシア語、アラビア語、ラテン語が飛び交う町だった。かつてイスラーム教徒の支配した島で、ノルマン人の王たちは、ギリシア人の役人やアラブ人の学者を宮廷に抱えていた(ノルマンのパレルモ征服)。フリードリヒはその空気の中で、いくつもの言葉を身につけ、数学や天文学、哲学に強い関心を持つ若者に育った。

1220年、彼は神聖ローマ皇帝の冠を受ける。ドイツと南イタリアを両方治める皇帝は、イタリアに勢力を持つローマ教皇にとって、挟み撃ちにされるような脅威だった。フリードリヒは生涯にわたって教皇と争い、何度も破門された。十字軍に出るという誓いを延ばし続けたことも、破門の理由の一つだった。ようやく東方へ出かけた彼は、ほとんど戦わずに、エジプトのスルタンとの交渉で1229年にエルサレムを取り戻した。教会からすれば、破門された皇帝が異教徒と話し合って聖地を得たのだから、喜ぶどころではなかった。イングランドの年代記作者は彼を「世界の驚異」と呼んでいる。
そのフリードリヒが何より好んだのが、鷹狩りだった。鷹や隼を飼い慣らし、空に放って獲物の鳥を捕らせる狩りである。南イタリアのプッリャ地方、フォッジャの宮殿や各地の狩りのための館で、彼は何百羽もの鷹を飼い、鷹匠を抱えた。アラブ世界から鷹匠を招き、アラビア語やペルシア語で書かれた鷹狩りの書物をラテン語に訳させた。遠い国々から珍しい鳥を取り寄せ、自分でも鷹の世話をし、飛ばし、何十年にもわたって鷹と獲物の鳥の姿を見続けた。

そうして得た知識を、彼は一冊の本にまとめた。1240年代に書かれた『鳥を用いて狩る技術について』である。全六巻のラテン語の書物で、皇帝が自ら筆を執ったとされる。
本は、鷹狩りの手引きであると同時に、鳥そのものについての書物でもあった。最初の巻は、鳥の体のつくりから始まる。骨の形、羽の並び方、羽の生え替わり。水辺の鳥、陸の鳥、猛禽といった鳥の分け方。何を食べ、どのように飛び、いつどこへ渡っていくのか。それから話は鷹狩りに移り、鷹の捕らえ方、飼い慣らし方、獲物に向けて飛ばす訓練の仕方が細かく書かれる。鷹を落ち着かせるために、まぶたを細い糸で縫って一時的に目をふさぐ方法や、頭に革の頭巾をかぶせる方法も説明されている。頭巾の使い方はアラブの鷹匠から学んだと、本の中で書いている。
この本のいちばん大きな特徴は、その書き方にある。序文で彼は、見たものをあるがままに書くと述べている。当時の学問では、古代の偉大な書物、とりわけアリストテレスの書いたことが、何よりも重い権威だった。だがフリードリヒは、アリストテレスの書いたことでも、自分の目で見て違っていれば、違うと書いた。アリストテレスは鷹狩りをしたことがなく、人から聞いた話に頼っている、とも記している。死肉を食べる鳥が獲物を目で見つけるのか、匂いで見つけるのかを確かめようとして、目を覆った鳥で試したという話も伝わっている。
この本は、完全な形では残らなかった。1248年、フリードリヒは北イタリアのパルマの町を包囲していたが、町の人々の不意打ちを受けて陣営が焼かれ、宝物や書物が奪われた。皇帝が手元に置いていた豪華な写本も、このとき失われたと伝えられる。二年後、フリードリヒは南イタリアで病没した。
現在に伝わる写本の中で最も名高いのは、息子のマンフレーディが父の本の最初の二巻に手を加え、挿絵を付けてまとめ直した写本である。余白には九百を超える鳥の姿が描かれている。飛ぶ鳥、羽を休める鳥、鷹匠の腕にとまる鷹。種類ごとの特徴をよくとらえたその絵は、それ自体が当時の鳥の記録になっている。この写本はいま、ローマのヴァチカン図書館に収められている。六巻すべてを伝える写本も、別にいくつか残っている。
これは王侯の遊びのための本である。だが、その書き方は遊びを越えていた。古い書物の権威より、目の前の鳥を信じる。自分で確かめ、確かめたことだけを書く。こうした態度が学問の主流になるのは、ずっと後のことだ。十六世紀には、ヴェサリウスが古代の医学者の権威に逆らって、自分の手で人の体を解剖して書いた(ヴェサリウス『ファブリカ』)。十八世紀にはカール・フォン・リンネが、目で見た特徴をもとに動植物を分ける体系を作る。フリードリヒの本は、それより何百年も前に、のちの博物学のやり方を先取りしていた。
フリードリヒは、鳥を狩りに使うために、鳥をよく見た。使うことと知ることは、この本の中では一つになっている。役に立てたいという欲が、自分の目で確かめるという方法を生んだ。皇帝の道楽から生まれたこの書物は、中世の自然についての書物の中でも、とりわけ独創的なものとして、いまも読み継がれている。