傷の重い順に診る
概要
フランス革命軍のライン方面軍に配属された若い軍医ドミニク=ジャン・ラレーは、シュパイアーの戦いのあと、負傷兵が戦場に一昼夜以上置き去りにされ、救護が来る前に死んでいくのを見た。救護の車は戦闘が終わってから、軍の後ろからやって来る。彼は騎馬砲兵の軽い車台を借りて、戦闘のさなかに前線まで入る「飛ぶ救急車」を作った。そして運び込まれた者を、階級の順でも、着いた順でもなく、傷の重さと急ぎの度合いの順に診ると決めた。敵兵も同じ列に並べた。待たせる順番を、身分ではなく容体で決めるという考えが、のちにトリアージと呼ばれる。
場所
49.32°N 8.44°E · ドイツ
本文
18世紀の軍隊で、負傷兵の救護はいつも後ろにあった。野戦の救護所は戦線から何キロも後方に置かれ、救護の車は戦闘が終わってから動き出す。車は荷車に近い重いもので、軍の荷駄の列に混じってゆっくり進んだ。その間、撃たれた兵は倒れたところに置かれたままになる。一昼夜、ときにはそれ以上。出血と寒さと渇きのために、多くの者が救護の来る前に息絶えた。
この光景を変えようとしたのが、ドミニク=ジャン・ラレー(1766〜1842年)である。ピレネー山脈のふもとの村に生まれ、トゥールーズで外科医の叔父について学んだ。パリに出たあと海軍の軍医となり、北米ニューファンドランドの沖まで航海している。1792年、革命フランスがオーストリアとプロイセンを相手に戦争を始めると、彼はライン方面軍に配属され、ストラスブールに赴いた。

その年の秋、フランス軍はライン川沿いの町シュパイアーを攻め取った。勝った戦いである。それでも、負傷兵は戦場に置き去りにされた。のちにラレーが書いたところでは、救護が届くまでに24時間、ときには36時間かかったという。このとき彼の目に留まったのが、騎馬砲兵だった。軽い車台に大砲を載せて馬に引かせ、戦場を素早く動き回る部隊で、フランス語では「飛ぶ砲兵」と呼ばれていた。大砲が戦闘のさなかに前へ出られるのなら、救護も出られるはずだ、と彼は考えた。
ラレーは砲の車台を、人を運ぶ形に作り替えた。ばねを付けて揺れを抑え、横たえた負傷兵を前後から出し入れしやすくした。車だけでなく、人も組にした。外科医と助手、担架を運ぶ兵、包帯や器具を積んだ馬が一つの班となり、前衛のすぐ後ろに付いて動く。戦闘が終わるのを待たず、撃たれた兵をその場で手当てし、すぐに後方へ運ぶのである。指揮官のキュスティーヌ将軍がこれを認め、1793年からライン方面軍で使われ始めた。革命の軍は徴兵された市民の軍であり、兵を大事にしていると示すことにも意味があった。この仕組みは「飛ぶ救急車」と呼ばれるようになる。

運び込んだあと、誰から診るか。それまでの当たり前は、将校から、身分の高い者から、あるいは着いた順だった。ラレーは別の順を取った。傷の重さと、手当ての急ぎの度合い。それだけで決める。階級は見ない。味方か敵かも見ない。捕虜になった敵の負傷兵も、同じ列に並べた。待っても死なない者を待たせ、待てば死ぬ者を先にする。待たせる順番を、身分ではなく容体で決め直したのである。
ただし、それは単純な「重い順」ではなかった。手を尽くしても助からない傷に、限られた外科医の手をどこまで割くのか。助かる見込みのある者を先にすべきではないのか。この問いは、ラレーの時代のあとも答えの出ないまま残り続ける。
ラレーはその後、ナポレオン・ボナパルトの遠征のほとんどに付き従った。ナポレオンのエジプト遠征では、砂漠で車が使えないため、ラクダの背の両側に担架を振り分けて負傷兵を運んだ。アウステルリッツ、アイラウ、ボロディノの戦いに加わり、モスクワからの冬の退却もくぐり抜けた。ボロディノの戦いのあとには、一日に200件ほどの切断手術を行ったと伝えられる。当時、手足の深い傷は腐って命取りになることが多く、早く切り落とすことが命を救う手段だった。ワーテルローの戦いでも彼は戦場にいて、捕らえられ、あやうく銃殺されかけたところを、彼に息子の命を救われたことのあるプロイセンの将軍に助けられたという話が残っている。ナポレオンは遺言で彼に金を遺し、知るかぎりで最も徳の高い男だと書き添えたと伝えられる。
今日、こうした選り分けはトリアージと呼ばれる。フランス語で「選り分ける」という動詞から来た語で、もとは羊毛やコーヒー豆のような商品を等級ごとに分けることにも使われた。ラレー自身がこの語で自分のやり方を呼んだわけではない。仕組みのほうが先にあり、名はあとから付いた。
その後の戦争でも、選り分けの工夫は続いた。クリミア戦争では、ロシアの外科医ピロゴフが、負傷兵を容体ごとに組に分けて手当てしたことで知られる。同じ戦争で、イギリス側ではナイチンゲールが病院の衛生を立て直していた(スクタリの野戦病院)。第一次世界大戦では、負傷兵を段階ごとに後方へ送る仕組みが各国の軍で整えられた。やがて選り分けは戦場から街へ出る。1983年、カリフォルニアのニューポートビーチの救急隊と病院が、多数の負傷者が一度に出たとき、一人に一分とかけずに歩けるか、息をしているかなどで色分けする手順を作った。いま、大きな災害の現場で使われる手順の多くは、この流れをくんでいる。病院の救急外来で、着いた順に名前が呼ばれないのも同じ考えによる。

列は、ふつう着いた順に並ぶ。パン屋の行列のように、それが公平だと感じられるからである。だが救護の列では、着いた順が人を殺す。だから順番を別の物差しで決め、その物差しを身分から容体へ取り替えた。待たされる側から見れば、あとから来た者に追い越されることになる。それを受け入れさせるのは、あちらのほうが重い、という誰の目にも分かる理由である。理由の見えない追い越しは、どの列でも怒りを生む。ラレーの仕組みが受け入れられたのは、敵も味方も同じ物差しで測ったからでもあった。