人物

アントニ・ファン・レーウェンフック

Antonie van Leeuwenhoek
AD1632年10月24日 – AD1723年8月26日(享年90)
オランダ重要度 4

概要

織物商が趣味で作ったレンズで、水の一滴の中に動くものを見た。生きものの世界がもう一段下にあると分かる。フェルメールと同じ年に同じ町で生まれている。

関わったできごと(1)

レーウェンフックの微生物AD1676年 · 覗いた

本文

1632年10月24日、オランダの町デルフトに生まれた。父は籠作りの職人で、彼が5歳のときに亡くなった。母の実家は醸造業を営む家だった。学校に通ったのは短い期間で、ラテン語は学ばなかった。当時、学問の言葉はラテン語である。そのことが、後の彼の仕事にずっとついて回る。

16歳でアムステルダムの織物商の店に奉公し、帳場で帳簿と勘定を任された。20歳過ぎにデルフトへ戻り、自分で布地と糸の店を開いた。織物商は布の目の細かさを確かめるため、拡大鏡を使う。のちの彼の顕微鏡の出発点はここにあったと考えられている。商売のかたわら、市役所の世話役や測量士、酒の樽の容量を量る検査官といった町の役職にも就いて、安定した収入を得た。オランダが世界の海と商業を握ったオランダの黄金時代の只中である。

オランダの黄金時代に関わる図版:Joannes van Deutecum - Leo Belgicus 1650 - published by Claes Jansz Visscher Amsterdam
オランダの黄金時代Wikimedia Commons Claes Janszoon Visscher II / Joannes van Doetecum I · Public domain

彼がレンズを磨きはじめた詳しいきっかけは分からない。イギリスのフックが1665年に出した『ミクログラフィア』は、顕微鏡で見たノミや植物の細胞を大きな版画で示し、評判になっていた。レーウェンフックは1668年にイギリスを訪れており、この本に刺激を受けたとする見方がある。

彼の顕微鏡は、フックの使った筒の長い顕微鏡とは違う。米粒ほどの小さなガラス玉のレンズを1つだけ、手のひら大の真鍮や銀の板2枚の間に挟んだもので、見たいものを針の先に載せ、目をレンズに押しつけるようにして覗く。単純な作りだが、レンズの質がずば抜けていた。残っている品の中には、270倍ほどの倍率を持つものがある。当時の複式の顕微鏡より、はるかによく見えた。生涯に500個以上のレンズを作ったとされるが、その作り方は誰にも教えなかった。

アントニ・ファン・レーウェンフックの肖像
アントニ・ファン・レーウェンフックの肖像Wikimedia Commons Jan Verkolje · Public domain

1673年、デルフトの医師の紹介で、ロンドンの王立協会の設立に最初の手紙を送った。カビやハチの針を観察した報告だった。翌年、町の近くの湖の水を覗いて、緑の糸のようなものの間を小さな生き物が泳ぎ回っているのを見た。1676年には、胡椒を浸した水の中に、もっと小さな、無数の生き物がいることを報告した(レーウェンフックの微生物)。その数を、一滴の中に何千、何万と見積もって書き送った。

王立協会は、すぐには信じなかった。報告はオランダ語で書かれた手紙で、書いたのは学位も無い織物商である。フックが自分で顕微鏡を作って同じものを確かめるまで、時間がかかった。レーウェンフックは、町の公証人や牧師ら8人に自分の顕微鏡を覗かせ、見たことを証明する書面を書かせて送っている。1680年、彼は王立協会の会員に選ばれた。一度も会合に出ることはなかったが、生涯に200通近い手紙を協会へ送った。

レーウェンフックによる顕微鏡観察スケッチ。トネリコ属の木質部。
レーウェンフックによる顕微鏡観察スケッチ。トネリコ属の木質部。Wikimedia Commons Antonie van Leeuwenhoek · Public domain

彼の目は、ありとあらゆるものに向かった。精液の中を泳ぐ精子を見て、その姿を描いた。自分の歯の垢を削り取り、そこに動き回る小さなものを見つけた。今日でいう細菌である。オタマジャクシやウナギの尾で、血液が細い血管の中を流れていく様子を観察し、動脈と静脈が毛細血管でつながっていることを確かめた。心臓から出た血が体を巡って戻るというハーヴェイの血液循環の説に、欠けていた最後の一片を目で示したことになる。ノミやゾウムシの一生を追い、こうした虫が腐ったものから自然に湧くのではなく、卵から生まれることも示した。

名声が広まると、デルフトの店には訪問者が絶えなくなった。1698年には、ロシアのピョートル大帝が船でデルフトに立ち寄り、彼の顕微鏡を覗いている。レーウェンフックは訪問者に見せる顕微鏡と、自分だけが使う顕微鏡を分けていたと言われる。

ヨハネス・フェルメール『天文学者』。レーウェンフックがモデルとされている。
ヨハネス・フェルメール『天文学者』。レーウェンフックがモデルとされている。Wikimedia Commons Johannes Vermeer · Public domain

同じ1632年の10月、同じデルフトで、画家のヨハネス・フェルメールが生まれている。フェルメールが1675年に借金を残して亡くなると、レーウェンフックは市から遺産の管財人に任じられた。フェルメールの絵に描かれた天文学者や地理学者のモデルを彼だとする説もあるが、二人が親しかったことを示す記録は見つかっていない。

1723年8月26日、デルフトで亡くなった。90歳。死の床でも、自分の病気の症状を観察した手紙を書き、王立協会に送るよう頼んでいた。協会に贈った顕微鏡はのちに行方が分からなくなり、いま残る彼の顕微鏡は10点ほどしかない。

ヨハネス・フェルメール『地理学者』。同上。
ヨハネス・フェルメール『地理学者』。同上。Wikimedia Commons Johannes Vermeer · Public domain

彼が見たものが病気とどう結びつくのかは、およそ200年後、パスツールやコッホの時代になってようやく明らかになる(発酵は生き物の仕事である)。それでも、目に見えない生き物の世界がもう一段下にあることを、最初に人間に見せたのは、ラテン語の読めない一人の織物商だった。

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