フレネル・レンズ
概要
灯台の光を遠くへ届けるには、レンズで束ねればよい。しかし必要な大きさのレンズは、厚く、重く、自重で歪み、そして光を吸ってしまう。オーギュスタン・ジャン・フレネルは、レンズを同心円の帯に分け、曲面だけを残して厚みを削った。板のように薄く、光を通す。さらに外側には全反射するプリズムの環を置き、上下へ逃げる光まで拾った。ジロンド川口のコルドゥアン灯台に据えられ、光の届く距離が倍以上になった。彼は三十九歳で結核により死んだ。
場所
44.84°N -0.58°E · フランス
関わった人(1)
オーギュスタン・ジャン・フレネルAD1788年5月10日–AD1827年7月14日 · 設計本文
岬や岩場で火を焚いて船に危険を知らせる灯台は、古代のアレクサンドリアのファロスの灯台にさかのぼる。だが何千年もの間、灯台の光はさほど遠くまで届かなかった。炎や油のランプは四方八方に光を放ち、その大半は空や地面へ逃げてしまう。18世紀には、荒れた海の岩の上に石造りの塔を建てる技術も進んだが(沖の岩に立つ灯台)、肝心の光をどうやって遠くへ届けるかは、まだ解けていなかった。
方法は二つ考えられた。一つは鏡である。ランプの後ろに、皿のような放物面の鏡を置いて光を前へはね返す。18世紀の後半からは、この鏡をいくつも並べた灯台が作られた。
だが当時の銀めっきの鏡は光のかなりの部分を吸ってしまい、鏡の形から外れた方向へ出た光は逃げていく。もう一つはレンズで、凸レンズで光を束ねる方法である。ところが、灯台に必要な大きさのレンズを作ろうとすると、とてつもなく分厚く重いものになる。直径が1メートルもあれば、中心の厚さは数十センチ、重さは数百キロになる。厚いガラスは光を吸い、自分の重さでゆがみ、冷やして固めるときに割れてしまう。
この難問を解いたのが、フランスのオーギュスタン・ジャン・フレネルである。彼は、レンズのどこが光を曲げているのかを考えた。光を曲げているのは表面の曲面であって、内側の厚い部分は光を通しているだけ、しかもその間に光を吸っている。それなら、厚みを削ってしまえばよい。
フレネルはレンズを同心円の輪に分けた。そしてそれぞれの輪の、光を曲げる曲面の部分だけを残し、内側の厚みを取り去って、平らな面の上に並べ直した。断面が階段のように見えるレンズである。厚さは数センチで済み、それでいて光を集める働きは、元の分厚いレンズとほとんど変わらない。
同じような発想は、18世紀にフランスの博物学者ビュフォンや思想家コンドルセも述べていたし、同じころイギリスのブリュースターも独自に考えていた。ただ、一枚のガラスから階段の形を削り出すのは、当時の技術ではほとんど不可能だった。フレネルは、輪を一つずつ別に作り、それを金属の枠で組み合わせることで、実際に作れる形にした。

フレネルは、さらにもう一段の工夫を加えた。中央のレンズでは、そこから大きく上や下へ外れていく光を拾えない。そこで、レンズの外側の上下に、断面が三角形のガラスの輪を重ねた。光はこの輪に入ると曲がり、ガラスの内側の面ではね返されて、水平の方向へ出ていく。屈折と反射を組み合わせて、ランプから出る光のずっと多くを、水平線の方向へ送り出せるようになった。
フレネルは、灯台の大きさに合わせてレンズの等級も定めた。最も大きい第一等のレンズは、焦点距離が920ミリ、高さが人の背丈をはるかに超え、大きな岬や外洋に面した灯台に使われる。小さい等級のものは港や川の河口に据えられる。この規格は、やがて世界の標準になった。

1823年7月25日、フランス南西部、ボルドーの下流でジロンド川が大西洋に注ぐ河口のコルドゥアン灯台に、最初の第一等のフレネル・レンズが据えられた。コルドゥアン灯台は17世紀の初めに完成した古い灯台で、彫刻や礼拝堂まで備えた華やかな塔から「灯台の王」とも「灯台のヴェルサイユ」とも呼ばれる。フランスでいまも使われている灯台の中で最も古く、2021年には世界遺産に登録された。新しいレンズによって、光ははるか沖まで届くようになり、同じ明るさを得るための油も少なくて済んだ。フランスの灯台は、次々にフレネル・レンズに切り替えられていった。
ほかの国の動きは、もっと鈍かった。イギリスでは、灯台を管理する団体が長く鏡の方式にこだわった。フランスのものだということに加え、すでに鏡に投じた費用があったからである。フレネル・レンズが広く使われるようになるのは、1830年代以降のことだった。アメリカはさらに遅れた。灯台を受け持っていた財務省の役人スティーヴン・プレザントンは、費用を切り詰めることを第一に考え、高価なフランス製のレンズを入れようとしなかった。
アメリカの灯台は暗いと、船乗りの間で評判が悪かった。1852年に灯台の委員会が作られて方針が改まり、フレネル・レンズが導入されていった。南北戦争が始まると、南部の人々は、北軍の船に使わせないよう灯台のレンズを外して隠した。戦後、その多くが見つかったが、行方が分からなくなったものもある。日本でも、1869年、フランス人技師の指導で建てられた最初の洋式灯台に、フランス製のレンズが据えられた(観音埼灯台)。

フレネルの本業は、灯台ではなかった。彼は橋や道路を造る国の土木技師で、灯台の改良は、灯台委員会の委員としての仕事だった。彼が情熱を注いだのは、光の正体を解き明かすことである。当時は、光を小さな粒の流れと考えるアイザック・ニュートン以来の説が主流だった。フレネルは、光は波であり、しかも進む向きに対して横に振れる波であることを、数学を使って示していった。
1819年、フランスの科学アカデミーが光の回折をテーマに懸賞論文を募ったとき、フレネルは波の理論で応募した。審査員の一人だった数学者ポアソンは、この理論を退けようとして、その計算からとんでもない結論を導いてみせた。この理論が正しいなら、丸い円盤の影のちょうど真ん中に明るい点ができるはずだ。そんなことがあるはずはない、というのである。

そこで同じく審査員だったアラゴが実際に実験してみると、影の中心には、確かに明るい点が現れた。この点は、否定しようとした人と確かめた人の名を取って、「ポアソンの点」とも「アラゴの点」とも呼ばれる。フレネルは賞を得た。
だがフレネルは、長くは生きられなかった。結核に冒され、1827年7月14日、39歳で亡くなった。死の直前、ロンドンの王立協会は、光の研究に対して彼にラムフォード・メダルを贈っている。パリのエッフェル塔には、フランスの科学と技術に功績のあった72人の名が刻まれており、その中に彼の名もある。

いま、灯台の巨大なガラスのレンズは役目を終えつつある。多くの灯台で、明るい発光ダイオードの点滅に取り替えられ、船は衛星を使った位置の測定で航路を知るようになった。人のいなくなった灯台から外されたレンズは、博物館に飾られている。しかし、フレネルの原理はいたるところで生きている。
映写機や投影機の光を集めるレンズ、自動車のヘッドライトや尾灯、カメラのピントを合わせるための板、太陽の光を集める装置。本の間に挟める薄いプラスチックの虫眼鏡も、表面を見ると細かい同心円の溝が刻まれている。それがフレネル・レンズである。厚みを削るという一つの考えが、二百年たったいまも、光を必要なところへ運び続けている。